聖霊降臨節第21主日礼拝説教

2021年10月10日

ローマの信徒への手紙 13:1-10

「わたしたちを統べる者」

新共同訳聖書はポイントごとに小見出しを付けています。いくつかの節のまとまりについて、そこには概ねどのような内容が書かれているかを一言で表しているわけです。この小見出しは、記憶の中にある御言葉が聖書のどこに収められているのかを探す時などに大変便利ですが、実は問題もはらんでいます。読み方によっては「この箇所はこのように解釈すべき」という印象を与えかねないという問題、そしてそれぞれの御言葉が単独で存在しているかのような印象を与える可能性があるという問題です。

実のところ、聖書の御言葉はどれ一つを取っても単独で存在しているわけではありません。全ての御言葉がそれぞれに関係しあっています。例えば今日の日課であるローマの信徒への手紙13章を読んでいて、この箇所は創造論に関わるということに気付かされました。

神さまはこの世界の全てを創造されました。神さまを信じる人も信じない人も、神さまの御名を知っている人も、知らずにいる人も、全ては神さまがお創りになりました。そして神さまは全てを御心のためにお用いになります。

神さまはそれぞれの人を創られ、それぞれの人に務めを与え、御心のために用いられます。ある人には土地から食べ物を得、社会に供給するという務めを与え、別の人には子どもを集め、教え育てるという務めを与え、また別の人には別の務めをというように、私たちになすべきことを与えられました。今私たちが負っている務めは、たまたまその仕事を選んだというわけではなく、神さまが用意してくださった務めであり、私たちはそれを果たすことで神さまに御心を行っているわけです。

神さまの御心は神さまを信じない人にも及んでいます。歴史から例を引きますと、バビロニアで囚われている神の民を解放するため、神さまはペルシャ王キュロス2世を用いてバビロン王国を撃たれました。彼はアブラハムの神、つまり私たちが信じている神さまを信じていたわけではありませんが、神さまは彼を王として立て、御心のために用いられました。このように、世の権力者も神さまが御心によって立てられたのだから、私たちはその指示に従うべきだとパウロは論じています。

この御言葉は私たちにとって驚きであり、抵抗を感じさせる個所だと思います。この御言葉を文字通りに読みますと、あたかも公的権力に絶対的な服従を求められているように思われるからです。しかし、当然のことながら盲目的な従順が求められているわけではありません。もしも公権力が私たちに信仰に反する事を求めてきたならば、私たちは信仰を守らなければなりません。

パウロがここで勧めているのは、社会の秩序を守ることです。社会の秩序を守るということと、私たちの信仰とは互いに良い影響を与え合うはずだからです。ここでパウロは特に納税を取り上げて論じています。ローマへの納税の是非が当時のユダヤ人にとっては大きな問題だったからです。

ローマに納税するということは、ローマによる支配を受け入れるということを意味していると、ユダヤ人の保守的立場の人々は考えていました。しかし、彼らは神さま以外の何者も自分たちを支配する者として認めるわけにはいかないと、固く信じていました。特に過激な人々は、熱狂的行動によってローマによる支配を跳ねのけようとし、短剣を用いました。具体的に何をしたかと言いますと、ローマに税を納めるユダヤ人を暗殺したり、その畑を焼き払ったり、家を壊したりしました。

パウロはこの人々に反論しています。「神さまを信じる人に対して愛を行うのと同じように、神さまを信じていない人にも愛を行いなさい。それこそ神さまが求めておられることのはずだ。」

ここでは税の問題が信仰の問題と関連付けられて論じられています。同じような問答を、イエスさまもなさいました。「皇帝に税を納めるのは律法にかなったことでしょうか」という問いから始まるやり取りです。マタイによる福音書22章15節から22節までを少し読んでみましょう。

この問いをイエスさまに投げかけたのは、ファリサイ派の人々でした。彼らはイエスさまを陥れる口実を得ようと、ヘロデ派の人々と連れ立ってイエスさまの元を訪れ、この質問を投げかけました。

ファリサイ派とヘロデ派が連れ立って来る。これは、それ自体がナンセンスな出来事でした。何故ならば、ファリサイ派の人々は民族主義的傾向のある人々で、ローマに妥協的なヘロデ王を批判する立場の人々でした。翻ってヘロデ派の人々は政治的な意味で保守的な人々で、異文化の流入やローマの支配を現実的な立場から容認する人々です。

このように立場が対局にあるわけですから本来一致しえないはずの人々なのに、手を組んでいるのです。ファリサイ派の人々もヘロデ派の人々も「イエス憎し」で凝り固まってしまった結果、それぞれのアイデンティティーを脇において手を組んだわけです。つまり野合です。彼らは自分たちの拠って立つところを見失っています。

ところがインスタントに手を組んだ割に、この人々は良く考えられた罠を仕掛けました。イエスさまに話し掛ける際、まず「あなたは誰をも憚らない方」ですとか「分け隔てなさらない方」と高く評価しておいて、曖昧な返答で逃げたり質問その物を拒否したりすることが出来ないようにしておいてから、「皇帝に税を納めるのは律法に適っていますか」と問うわけです。

この質問の狡猾さについては皆さんも良くご存じでしょう。イエスさまが「律法に適っている」とお答えになったとすれば、「異民族による支配を容認している」と触れ回って民衆のイエスさまへの信頼を落とすことができます。「律法に適っていない」と答えれば、現政権への反逆を唆しているとして、治安当局に訴える口実となります。

するとイエスさまは近くに居た人に、「税金に納めるお金を見せなさい」と仰いました。

この時代、ユダヤの人々が使っていた貨幣は大まかに2種類ありました。かつてユダヤ人が独自に鋳造していた硬貨と、ローマが鋳造した硬貨がそれです。当時ユダヤ独自の硬貨は、神殿に献げものをする時にのみ使われており、買い物をしたり税金を納めたりするのにはローマの硬貨が使われていました。

この二つの硬貨は、見た目ですぐに違いが分かります。ローマの硬貨には皇帝のレリーフが刻んであるのに対して、ユダヤの硬貨には燭台が刻まれていたからです。ローマの硬貨にせよフェニキアの硬貨にせよ、それを発行する国の王やその国の神々の像が刻まれているのが一般的でしたが、十戒が「如何なる人物、神々の像をも刻んではならない」と禁じていたためにユダヤの人々は人物や神々の像を硬貨に刻みませんでした。

十戒を慎重に守って生きているユダヤの人々にとっては、偶像が刻まれている硬貨を使うということ自体が既に好ましくないことでした。イエスさまは無言の内にその感情を指摘され、その上で問いへの答えをなさいます。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

少々乱暴に言い換えますならば、「そもそもこの銀貨は私たちのものではないではないか。私たちにとっては何の価値も無いではないか。こんなものくれてしまえ。」とでもなりますでしょうか。

「私たちにとって一番大切なことってなんだろう。税金を納めるとか納めないとかいうことで揉めることか。そうじゃないだろう。私たちが何よりも大切にすべきことは、神さまの御言葉を聞き、御旨に従い、御心のために自分たちを差し出すことだ。」

私たちにとって一番大切なこととは何でしょうか。それを見付け出すための第一歩は「この世は全て神さまによって創られた」ということを認めることです。「私たちはみんな神さまが創ってくださった」と認め合うことです。

私たちの置かれている状況も全て神さまが備えて下さった道です。もしも状況が私たちに何かを求めるのであれば、私たちの良心にしたがって正しいと信じることを行えば良いのです。神さまが私たちに求められておられることは、互いを愛し合うことなのですから、いたずらに秩序を乱すこと、混乱を招くことは避けるべきでしょう。

私たちの信仰は、私たちの生き方は、誰に対しても害や不利益を与えるものではないはずです。それどころか周りの人にとっても有益であるはずです。私たちの生き方は、誰にも憚る必要の無い生き方であるはずです。だから、求められれば与えれば良いのです。誰に対しても敬意をはらい、神さまが創られた大切な人だと思って接するのです。元々私たちの望みは、誰かを傷付けたり誰かから奪ったりすることではないのですから。

私たちにとって何をおいても大切にしなければならないことはただ一つです。

主のみを私たちの王として戴くことです。私たちを統べしらす方はただ主お一人であるということを信じ、告白し、主の御旨に従うことです。

生きるということは決断の繰り返しです。大きい決断もあれば小さい決断もあります。どっちのトマトを買うべきかということですら決断です。さまざまな場において決断をくだします。その時、より大きな愛を行える選択をいたしましょう。

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