2021年10月17日
ヨハネの黙示録 7:9-17
「涙がぬぐわれる日」
黙示録は理解の難しい書物です。形式としてはパトモスという島にいたヨハネという人物に見聞きした不思議な光景の記録です。そこには現実に起こることのないような物事が立て続けに記されているので、読んでいると恐ろしくなります。
ルターを始め、多くの神学者・説教者が黙示録の扱いに苦しんできました。ここから読み取れるメッセージがあまりにも理解しにくいからです。それでも、聖書の正典から除外することが出来なかったのは何故でしょう。黙示録には、人の世の現実と信仰者に与えられた希望を読み取ることができるからであろうと考えます。
黙示文学の土台には「二つの時代」という世界観があります。それは「苦しみの今」という時代と、「来るべき救いの日」という二つの時代です。
黙示文学は預言の時代の後に登場しました。
預言とは「神さまの御心はこうだ。だからそれに従って生きよう。神さまに立ち返ろう」という呼びかけです。「私たちの生き方には改善の余地がある。人の世は良くなる可能性がある。」という希望があるから呼びかけるわけです。
しかし、人は神さまに立ち返ることができませんでした。その結果、人々はバビロンに連れ去られます。
バビロンでの囚われの日々、神の民は悔い改め、祖先から伝わる信仰に立ち返りました。そして、エルサレムへの帰還を果たすと城壁と神殿を再建します。工事の途中、妨害が働きましたが、神の民はそれを跳ねのけて神殿の再建を果たします。
ところが、今度こそ神さまから離れまいとして生き始めた彼らを待っていたのは新たな苦しみでした。アレクサンダー大王が遥かな東へと進軍し始めるとその支配に飲み込まれ、彼の死後には内乱に巻き込まれ、それが終わったかと思うと次にはローマが手を伸ばしてきました。正しく生きれば救われると信じていたのに、正しさが報われません。
そこで神の民は一つの結論に至ります。
今の世は正しさが報われない、不義の世なのだ。だから正しく生きようとする者が苦しまなければならないのだ。しかし、来るべき日には神さま御自身が地上に降り立ち、人々に直接働きかけ、一瞬にしてこの世を作り変え完全な善と正義が実現される。その日にこそ平和と繁栄と正義が確立され、自分たちは救われる。その時にこそ、私たち神の民は救われ、正しく生きようとした努力が報われるのだ。その日には、今ある世界は徹底的に破壊され、完全な刷新が行われる。耐え忍びつつその日を待つ今日の苦しみには意味があるのだと信じて生きていたのです。
来るべき日を待ち望む気持ちは、言い換えるならば現状への強い異議申し立てです。ですので、このようなことを、現在彼らを支配している人々に気付かれるわけにはいきません。だから、何の予備知識も無い人が読んでも理解できないような形で書き記される必要があったのです。
ヨハネの黙示録が書かれた時代にも、やはり信仰者にとっては強い抑圧と危険とが迫っていました。皇帝ドミティアヌスがユダヤ教徒、キリスト教徒両方を迫害していたからです。
ドミティアヌスは自らを神聖化し、神として拝むことを人々に強制しました。それはユダヤ教徒にとってもキリスト教徒にとっても従うことのできない命令でした。このためにドミティアヌスはユダヤ教徒とキリスト教徒を迫害したのです。
自分がキリスト者であることが知られてしまうと、捕らえられ、訴えられる。教えを捨てれば帰してもらえるかもしれないが、信仰を守ろうとすれば殺されてしまう。自分たちは何も悪いことはしていないのに、キリストの教えに従って正しい生き方をしようとしているのに、そのために苦しめられている。当時のキリスト者たちの心にも、黙示文学的な思いが生まれました。
黙示録に記されている恐ろし気な光景は、苦しみにみたされた現在が拭い去られ、世界が新しくされる救いの日が来る様子を描くものです。
さて、今日読まれた箇所が描いているのは、天における礼拝の姿です。大勢の人が集まっています。これらの人々は特定の国や民族に属する人々ではありません。ありとあらゆる違いを持つ人々が集められています。
これらの人々に共通するのは、みんな白い着物を着ているということです。なぜこの着物が白いのかについて、13節から14節に記されているヨハネと長老との問答から知ることができます。長老は、これらの人々の着物は子羊の血で現れて白くなったのだと答えています。
元々、彼らが着ていた服は白くありませんでした。汚れていたのです。そこに集められていた人々は特別な人ではありません。私たちと同じように、自分の罪深さや小ささに悩み、苦しむ人々でした。救いを求めて彷徨い、イエスさまに招かれて教会の門をくぐり、やっとそこで救いを見出した、やっと居場所を見つけた人々、弱い人々でした。
これらの人々に迫害の苦しみが襲い掛かります。彼らにとって、この世は最後の最後まで苦しみに満たされていました。それでも彼らはあくまでキリストを捨てませんでした。キリストが彼らを捨てなかったからです。世によって捨てられた彼らを招き入れ、包み込み、愛したのはイエスさまだったからです。彼らにとっての殉教とは、弱さ故に結びつけられたキリストとの愛の絆だったのです。
彼らは苦しければ苦しいほど、イエスさまにすがったのです。彼らの服を白くしたのは、彼ら自身の力ではなく、子羊の血でした。その血にあずかることが出来たのは、彼らの弱さの故でした。
私たちはどうしても、「迫害にも負けなかった人たちは凄い。特別に強い信仰を持っていたのだ。自分はそんなに強くない。」と考えてしまうと思います。しかし、実は彼らも私たちとなんら変わらない、弱い人々です。
殉教するキリスト者を見ていたローマの人々は理解に苦しんだことでしょう。
「あいつらは弱いはずなのに、こんな時にだけえらく強い。何が何でも信仰を曲げないのはなぜだ。不合理じゃないか。あれほど強くなれるのであれば、もっと楽に生きる方法もあるじゃないか。あの頑なさを捨てれば苦しむ必要など無くなるのに、賢い選択をしない。この人たちは何故愚かな選択をするのだろうか。」と。
キリスト者に言わせれば、それは全くの逆です。弱い自分たちを受け入れてくださった方を裏切るわけにはいかないからこそ、ここで信仰を貫かなければならない。自分の居場所をもう失うわけにはいかないからこそ、ここで信仰を貫かなければならない。なぜそれが出来るのか。自分を受け入れてくれたという体験が、それをさせるのです。
弱さを貫くことで、弱さ故に信仰を貫くことで、私たちの着物は白くしていただけるのです。「キリストを着よ」とはパウロの言葉ですが、弱さの故に私たちは着ている物を白くしていただくことができ、それがキリストを着ることに繋がるのです。
イエスさまを必要とするのは弱い人です。弱い人にこそイエスさまが必要なのです。苦しむ人にこそ、イエスさまはその人を愛しておられるということを伝えなければならないのです。
皆さんに問いたいことがあります。皆さんにとって、教会とはどこからどこまででしょうか。私は皆さんの目には秦野教会の一部分しか見えていないのではないかと感じています。平日の教会を見ていただきたい。ここには、キリスト者の群れだからこそ受け容れることのできる人たちが集まっています。キリスト者の群れだからこそ受け容れたいと願いたくなる人々が集まっています。
私たちに与えられた務めとは、それらの人々が受け容れられる場を守ることであると考えています。それが秦野教会を神の体として建て上げることに繋がると信じているからです。他の場所では受け容れの難しい彼らの居場所を守るため、最大限可能な便宜を図ることが私たちに求められていると感じています。
今はまだ雑談程度ですが、幼児園の子どもたちと守っている礼拝を、教会のみなさんも一緒に礼拝を守れたらいいねという話が出ています。そうすれば、どんなに世の知恵では愚かだとされるようなことをしてでも、この子どもたちの居場所を守りたいと感じてもらえるのではないかと思っています。
ヨハネは、天の礼拝に集まる人々の上に神さまが天幕を張り、如何なる苦しみをも取り去り、それまで流していた涙をぬぐってくださると記しています。私はそれを、来るべき次の世においてではなく、ここで見たいのです。皆さんと一緒に見たいのです。
この世は確かに苦しみに満ちている。しかし神さまは苦しみを苦しみのまま放置なさいません。この世にあっては、逃れの場として教会を建ててくださいました。教会は神の体としてあなたを迎え入れ、抱き締めます。そして来るべき日にはすべての苦しみを取り去り、これまでに私たちが流してきた涙をぬぐい取ってくださいます。
その日が来ることを願いながら毎日の歩みを一歩一歩進めて行きましょう。