2021年10月24日
創世記 2:4b-9,15-25
「分かたれ、また一つに」
この中にも聖書の通読に挑戦したことのある方が居られると思います。今まさになさっているという方もおいででしょうし、毎日の習慣として聖書を読まれる方も居られるでしょう。
聖書を最初から順番通り読んでいきますと、創世記や出エジプト記などは物語性があるので、とても読み進めやすいと思います。それが、レビ記あたりに来ますと、やたらと規則が並んでいて、読んでいてもあまり面白くはなくなってしまいます。そこが一つの難関となってしまうのですが、私のように飽きっぽい人間であっても、少なくとも今日読まれました天地創造の箇所くらいまでは集中力を欠くことなく読むことができると思います。
聖書について学び始めますと、ほとんど必ずと言っていいほど耳にします事柄として、「創世記には創造物語が二つ納められている」という指摘があります。これは創造物語を創世記第1章から2章4節の前半までと、2章4節の後半から25節までとを比較することで明らかになる事柄です。
言われてみますと確かに、一つの物語であると考えると内容的に辻褄が合わなくなってしまいます。人間の創造を例にとってみましても、1章で既に「神はご自分にかたどって人を創造された。」と記されているわけですから、2章で改めて土から人を創造したという記述は、時系列で考えると人の創造について2回述べられていることになってしまいます。では、神さまは人を2回創造なさったのかと言いますと、決してそうではありません。創造の御業について、異なる視点から二つの物語に分けて記されているのです。
第1章に記されている創造物語が言わんとしていることは、万物の創造者は神さまであるということです。大地も天の星々も、草木や動物たちも神さまが創造なさったのだということを伝えることが、主題となっているのです。
では第2章に記されている創造物語の主題は何でしょうか。それは神さまと人との関係です。
第1章においては、人間が創造される様子を「神はご自分にかたどって人を創造された」という言葉だけで終わらせていますが、第2章においては、より詳細に、どのようにして創られたのかが述べられており、さらにはどのようにして生きるべきなのかということについての最初の導きの言葉が記されています。
神さまは土をこねて人を創られました。聖書は人間の体は土から出来ているととらえています。これが実は私たちが思っているよりも正確な観察から生じた理解であるということは、以前「人間が食べるものは全て土から生み出されている。そして人間に限らず全ての生き物の体はいずれ土に還るという観点から正しい理解だ。」と申し上げました。さらに神さまは土で創られた体に命の息を吹き込まれ、これによって人は生きるものとなりました。
「息」という言葉には特別な雰囲気があります。日本語においても「息がかかる」と表現は、誰かの影響下にある人のことを言いますが、人は神さまから命を頂き、さらには神さまのご支配と庇護のもとにあるのだということが、「息を吹き入れられる」という言葉から読み取れます。
まさにその通り、神さまは食べるに相応しい実を結ぶ草や木が生えた園を創り、人をそこに住まわせられ、必要に応じて食べることを許してくださいました。人間が生きるために必要な物を全て用意してくださったのです。また、なすべきことも与えてくださいました。園の土を耕し、園を守ることが、人に与えられた仕事でした。
最後に、してはならないこととして、善悪の知識の木から食べることを禁じられました。
この木の名前を聞きますと、なぜ食べてはならないのか疑問に思います。善悪の知識を得たならば、人間は賢くなり、正しいことを行えるようになるのではないかと思うからです。
もしも人間が善悪の知識を完全に身に付けることができたならば、そうでしょう。しかし、人間がどれほど知識を増し加えて行っても、神さまのように完全な正しさを身に付けることはできません。このことは、歴史が証明しています。
人間は多くの知識を得、どんどん大きな力を得ていきましたが、その知識と力を自分たちの欲求を満たすことにのみ注いできました。本来であれば、知識を得る、力を得るということは、同時に知識と力を用いる者としての責任も増すはずなのです。それなのに、人間はその責任についてまで考えが及びませんでした。
文明が発達していくことは喜ばしいことだと思います。しかし、今の人間は、自分たちが得た力に対する責任を負いきれなくなっているのではないかと感じています。力を得ることで、かえって苦しみが増している面があるのではないでしょうか。人を幸せにするはずの知識が、留まるところの無い欲求や争い、不公平を生んでいるのではないかと思うのです。
人間の欲求を満たすことにのみ一所懸命になった結果、人間は神さまが整えてくださった世界を大きく破壊してしまいました。
私たち人間は、過去に大きな戦争を何度か経験しました。その歴史を学ぶ時、破壊の結果を表すものとして用いられるのは、決まって人間の尺度です。例えば何千人、何万人が亡くなった、家を失ったというような尺度であったり、何千億円、何兆円という被害が生じたというような尺度です。
もちろん人間が争うことによって、人命や生活が破壊されるということが私たちの目に一番映りやすいのですが、それと同じかそれ以上に深刻なのは、神さまが創ってくださった地球そのものへの破壊です。でも、「これこれの戦争によってどれほどの森が焼き払われた」とか、「この戦いにこれほどの野生動物が巻き込まれた」ということは論じられません。
20世紀後半に入って、やっと人間は自然界に生きる動植物の様子から、自分たちのしていることの是非を知る努力を始めました。
戦争だけではありません。私たちは豊かな生活を求めて努力してまいりましたが、その結果破壊されてしまった自然環境を無視すべきではありません。私たちの経済活動の結果が、生き物にどういう影響を与えているのかということへの関心がもたれるようになりました。
私たちがこの世界の中で、調和を保って生きるためには、共に生きる者たちを知ることが必要です。共に地球で生きているそれぞれの生き物がどういう生き物であって、どうなると喜び、どうなると苦しむのかということを、それまで以上に熱心に研究するようになったということは、それこそ神さまが私たちに与えられた仕事だと思います。
今では自然と調和する生き方を多くの人が模索しています。それは神さまへの応答だと思います。人間は、やっと善悪の知識に対して相応しいものになろうとしているのです。
知識を持つ者のすべき考察は人間自身の存在にまで及びます。みんなが満たされて生きること道を探るために、お互いのことを知る努力をしようと呼びかけられています。互いを理解するために必要なこととは、まず「互いが違う存在であるということを知る」ということです。人はみんな根本の所で違うのですから、それを誰か一人の考え方で型に嵌めて捕らえようとしても、理解することなどできません。
夫婦の関係でも似たようなことが起きるのではないでしょうか。残念ながら私は結婚したことが無いので分かりませんが、愛する人と「ここは同じだな」と思える部分と「ここは違う」と感じる部分があるのではないでしょうか。
良く言われるのは「味噌汁の味」でしょうか。やれ味噌が多過ぎるだの、「俺は具が少ない方が好きだ」だの、好みには違いがあります。挙句に「うちのお袋はこうだった」なんて言われると「だったらお母さんの所に帰りなさい!」と言いたくなりますが、それでは夫婦は成り立ちませんよね。違う好みを持った者同士が共に暮らす中で、互いの好みに合わせた新しい味が創られていくのでしょう。
違いを理解することでなされる創造があるのです。同じ者だけで集まっていたのでは、どこかで行き詰ってしまいます。違いがあるからこそ新しい道が拓けるということがあるのです。違いがあることを恐れる必要はありません。違いがあることで距離を置く、排除するなんて必要は更にありません。違いがあるからこそ人間なのですから。でも、違いがあっても私たちは一つになれるのです。元は一つの体から分けて創られたのですから。
ここで聖書が論じているのは、女は男を助けるために創られた従属的な存在であるということではありません。違いを持つ者同士の代表例として男女の性別を用いているだけです。ですので、どちらが先に創られたかなどということも気にする必要はありません。
互いに違う者、違う好み、違う視点、違う生き方をする者であったとしても、元を正せば骨と肉を分け合った者なのです。その二人について神さまは「二人は一体となる」と言われました。だから私たちは再び一つとなれるよう努力を続けます。再び調和して生きることが出来るよう、神さまが整えてくださった園を守れるように、努力を続けます。それが、知識を巡らせた結果得られた結論です。
ここで疑問に思われる方も居られると思います。「それでも知識の木から食べちゃったんだから死ぬんだろう?」とか「エデンからは追い出されちゃったじゃないか」と。
確かに人間は死ぬ者とされました。知識を得た結果、私たちには苦しみがのしかかりましたが、神さまは知識にまさる方に引き合わせてくださいました。確かに人間の肉体は死にます。しかし、私たちは永遠の命へと招かれているではありませんか。私たちには御子の十字架によって永遠の命が約束されているではありませんか。
エデンから追放される二人に与えられたのは何でしたか。皮の衣、裸の体を覆う着物です。「裸なのであなたの御前に出ることができません。」と答えた二人に、体を覆う着物を与えられたのは何故でしょうか。これは「裸だから私の前に立てないと言うのであれば、この衣を与える。私はあなたが私の前に立てない理由を取り去る。だから、その時が来たならば帰って来なさい。」と言うメッセージだと私は考えています。
神さまの召しに応える時、私たちは神さまの御元に帰れるのです。完全な調和がある、エデンに帰れるのです。だから私たちは、違いを持つ者同士、一つとなって歩むのです。
その日を目指して、今日も歩むのです。