2021年10月3日
ヘブライ人への手紙 11:17-22,29-31-13
「信仰の力」
ヘブライ人の手紙の筆者は11章の冒頭で、信仰とは何か、そもそも神さまを信じるということにはどういう意味があるのかという問いを暗に立て、「それは希望の基であり、また見えない事実の確たる証拠である」と答えを提示しています。そしてこの答えに対する証明を、旧約聖書に描かれている祖先との関わりを通して展開します。
ここでは特にアブラハムとモーセ、つまりヘブライ人にとってのアイデンティティーの核となる二人の人物に神さまがどう関わり、二人がそれにどう応えたか、またその結果神さまが二人に与えた物について論じ、さらには今の私たちに神さまがどう関わっておられるのかというところにまで論を進めています。
アブラハムはカルデアのウルという町に住む、豊かな遊牧民の息子でした。神さまはアブラハムに語り掛け、これから命じる土地に行けば子孫を増やし、神の民として大いなる祝福を与えると約束なさいました。
アブラハムは神さまの御言葉を信じ、住み慣れたハランを発ち、カナンの土地を目指します。
旅を続けるなかでアブラハムには跡取り息子となるイサクが与えられます。自分も妻のサラも既に年老いており、子どもを得ることを諦めていたアブラハムにとっては大きな喜びであり、この子どもこそ神さまの祝福の証拠であるように思えたことでしょう。
ところが神さまは、そのイサクを焼き尽くす献げものとして捧げよと命じられました。
アブラハムは苦しみ、悩んだに違いありません。そのことをヘブライ人への手紙の作者は「試練」という言葉で表現しています。
悩み抜いた末にアブラハムはイサクを献げることを決意します。祝福の約束はこの子どもによって果たされるはずでした。この子どもから多くの子孫が生まれるはずでした。ヘブライ人への手紙の作者は、その時のアブラハムの心中を推測しています。
「神さまは私の子孫を神の民とし、増やすと約束してくださった。その御言葉の通りイサクを与えて下さった。この子どもから多くの子孫が生まれるはずなのに、いま神さまはこの子どもを献げろと命じられる。この子どもを死なせてしまったら、いったいどのようにして私の子孫は増えるというのだろうか。どのようにして神さまは約束を守ってくださるのだろうか。」
アブラハムは多いに悩んだはずです。その末にアブラハムは、「とにかく神さまを信じよう神さまは約束を違えるお方ではない。どうなさるのかは分からないが、神さまはイサクを返してくださるに違いない。」と考え、イサクを献げる決意をしました。イサクを連れて山に登り、まさにイサクの首に刃物を当てようとした時、主のみ使いがアブラハムを止め、一匹の雄羊を神さまに献げるべきものとして与えました。
この後、イサクからはヤコブとエサウという二人の息子を儲け、ヤコブは12部族の祖となる12人の息子を得ます。このようにして神さまはアブラハムとの約束を果たされました。
旅に出る前、神さまはアブラハムを祝福し、子孫を増やすことを約束なさいましたが、この物語の時点ではそれはまだ実現していません。もちろんイサクが与えられたということは、将来その約束が果たされるということを信じさせるに足る出来事ではありますが、まだ約束は形にはなっていいません。現実的に目に見える形にはなっていません。旅の先にある事柄については未だ目に見えてはいません。
一人息子を献げなさいという命令は、子孫を増やすという約束を根底からひっくり返す内容で、旅のゴールはより見えにくくなってしまいました。それでもアブラハムは神さまの御言葉の通り、イサクを捧げようとしました。これはアブラハムの信仰告白です。神さまはアブラハムの信仰を良しとし、献げものとすべき雄羊を与えられました。
このやり取りによってアブラハムは神さまが約束を果たされるということ、神さまの御力が自分に及んでいるということへの強い確証を得たはずです。この出来事を通して、アブラハムの信仰は更に強く、大きくなりました。信じるということによって、私たちは希望を叶えられ、また信じるということによって、目には見えないけれども神さまの御手の力は確かに働いているということを実感できるようになるのです。
ついでヘブライ人への手紙の作者はモーセの旅を取り上げます。
イサクの子、ヤコブの子どもである神の民は飢饉に際してエジプトに移住し、そこでさらに子孫を増やしていきましたが、いつしかエジプト人に虐げられるようになりました。神さまはモーセを遣わし、民をエジプトから導きだされます。行く先はカナンの土地です。
ここでもやはり、神さまは約束をなさいますが、民の全てがこの約束を信じていたわけではありません。むしろ多くの人々が疑念を抱いていました。そういう意味では、モーセの苦労はアブラハムの苦労よりも大きかったのだろうと思います。アブラハムは自分の信仰を貫いて行けば、一族はその後ろをついてきましたが、モーセの場合は違います。モーセが率いていた民は、彼と同じような信仰を持ち合わせてはいませんでした。だから、ことあるごとに不満を漏らし、危機に陥る度に「エジプトに居た方がよかった」と泣き言を言うのです。
エジプト軍に追いかけられた時もそうでした。「あなたが私たちをエジプトから引き出したのは、この荒れ野で死なせるためだったのか」と民はモーセに詰め寄ります。
これをご覧になった神さまは紅海を二つに割り、民に道を用意なさいました。そしてエジプト軍を紅海の波の間に沈められました。民を襲う敵に対して神さまが戦われ、民を守られました。
モーセと民は40年という長い間、荒れ野を旅したわけですが、これは民の全体が信仰を固くするために必要だった期間と考えて良いでしょう。この旅を歩き通した民は、神さまが約束を果たしてくださるということを確信し、自分たちよりも強く、大きな体を持つ人々が住むカナンの土地へと入っていきます。
カナンへの足掛かりとしてエリコの町を包囲した時に民がやったことと言えば、七日の間、毎日城壁の周りを一周することだけでした。イスラエルの民は自分の力によってではなく、神さまの力によってこの町を陥落させています。
またこの時、神さまはラハブという女性とその家族を守られました。彼女はカナンの住人でしたが、神さまを信じる心を持っていました。この故に神さまは戦いの混乱の中でも神さまは一人の女性を守られたのです。
神の民は旅の途中、決して安楽な暮らしをしていたわけではありません。嬉しいこともあれば、苦しいこともありました。しかし神さまはその度ごとに約束を思い起こさせ、民の信仰をより固くされました。民の心に破れが生じた時も、神さまが御手でこれをふさぎ関係を修復なさいました。苦難の度に、神さまの見えない力が民を守り、また育てたのです。
信仰者の毎日の生活、生涯の全体も、神の民の旅路と同じです。私たちもまた旅を続けているわけですが、神さまが民を導かれ、守られたのと同じように、神さまは私たちをも導かれ、守ってくださいます。
道の途中には、苦しいこともあるかもしれません。今などは正に、世界を上げて右往左往していると言えるでしょう。しかし、私たちはあてもなく彷徨っているわけではありません。
「あなたがたは希望をもつことができる。私を信じることが、その基である。まだ行く先は見えていない。しかし、私はあなたと共にある。あなた方の目には見えないかもしれないが私は共にある。」
神さまはそう約束してくださいました。
不安が常にある今だからこそ、この約束を常に忘れないように、大切にしましょう。