2021年10月31日
創世記 4:1-10
「カインの罪」
楽園から追放されたアダムとエバは子をもうけました。
エバはカインを産み、「主によって男子を得た」と言いました。この言葉は訳し方によって、「主と共にあって男子を得た」とも解釈できます。カインは男女の営みによって生まれた最初の子どもです。これまで命を生み出すことは神さまによってのみなされていましたが、この時初めて人は神さまがなされたのと同じように命を生み出す者となりました。ただし、この作業は人の力によってだけ行われるのではなく、神さまと共になされるのだ、命の始まりには神さまが関わっておられ、それは神さまから委ねられた業なのだということをエバは明らかにしています。
エバは次いでアベルを産みました。この兄弟は大きくなると、アベルは羊を飼い、カインは土を耕す農夫となりました。そして、それぞれに実りを神さまに捧げました。カインは土の実りを、アベルは羊の群れの中から肥えた初子を捧げました。神さまはアベルの捧げた羊には目を留められましたが、カインが捧げた土の実りには目を留められませんでした。
ヘブライ人への手紙では、その理由を献げものの優劣にあると述べています。このことをもって、解釈者の中には「カインは単に採れたものの一部を持って来ただけだったのに対して、アベルは特に選りすぐりのものを捧げたのだ」と解釈し、捧げる姿勢の違いが問題だったのだと言う人もいますが、少なくとも創世記には理由は記されていません。
カインにとっても理由は分からなかったのではないでしょうか。だから、カインは自分の献げものが受け容れられなかったことに憤り、怒って顔を伏せたのです。問題は、カインの献げものにあったわけでもなく、また神さまが彼の献げものみ目を留められなかったことにあったわけでもありません。カインの内面にあったのです。
カインは神さまの決定を受け容れることができませんでした。カインの心の中には、神さまへの反抗心があったのです。神さまが自分にとって好ましくないことをなさった時には、それを拒否するという性質があったのです。
「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」と神さまは問われましたが、この問いは「私の決定を受け容れることはできないのか。」という意味であり、またその裏には「自分にとって都合の良くない決定であっても、それを受け容れて欲しい。」という願いがあります。
生きていると、自分の好まない状況にしょっちゅう出会います。自分の思い通りにならないことの方が多いくらいです。しかし、成長していく過程で、私たちは状況を受け容れ、折り合いを付ける術を身に付けるのですが、いつもそれが出来るとは限りません。それが出来ない時には、不満を持ちます。「それは悪いことだ」と解釈します。そして、その気持ちが耐え難いほどに増すと、爆発します。
ある時には怒りとなって爆発し、ある時には涙となって吹き出します。この時、自分の感情を制御できず、感情に振り回されて、普段であればできないことや言うはずの無いことを言ってしまいます。カインの場合は、アベルの殺害がそれでした。
弟を殺してカインはスッキリしたでしょうか。「弟はどこにいるのか」という神さまの問いに対するカインは、全てを包み隠そうとして「知らない」と答えました。彼の姿勢は拒絶です。それは「それを私に問わないで欲しい。」という神さまへの拒絶であり、「私は弟とはもう関りが無いのだ」という、アベルとの関係の拒絶、また現在の状況の拒絶です。
カインの心には、耐え難い苦しみが生じていました。この苦しみが拒絶を生み出しています。
神さまはカインに重ねて問われます。
「何ということをしたのか。」
自分のしたことを改めて考える機会を与えています。
アベルの血が土の中から神さまに向かって叫んだこととは何でしょうか。それは、何が行われたのかということでもあり、無念な気持ちでもあるでしょう。
今日は読まれませんでしたが、11節では「お前は呪われるものとなった。」と仰っています。神さまが呪われたのではありません。自らの行いのためにカインは苦しみ続ける者となってしまったのだと教えられたのです。
カインは、神さまに問われる前から実は苦しみ始めていたのです。だから全てを拒絶し、包み隠そうとしました。そのカインに神さまがなさったことは、罪の宣告という止めの一撃ではありませんでした。考える機会を与え、それと向き合って生き続けることをお命じになりました。つまり、カインに対する神さまの姿勢は、処罰ではなく、教育でした。
繰り返し罪を犯す人の多くが、その生育・発達の過程で充分な成長をする機会を得られなかったのだという意見があります。実は複数の立場から同じような意見が出されています。
少年院で勤務していた精神科医が書いた「ケーキを切れない非行少年たち」という本では、少年院に送られてくる子どもの多くが「ケーキを3等分できない」ということを代表例として、発達に課題がある子どもが善悪の判断がつかぬまま人を傷付けたり、犯罪に加担したりすることが多いと述べています。
また、懲役刑を経験した人が同じように懲役刑に服している人を観察した結果、「繰り返し懲役に来る人のほとんどが発達や学習に困難がある人や、生育の過程で体験すべきことを体験できていない人であった」という見解を述べています。
誰も望んで罪を犯すわけではないのです。
その人々に対して処罰感情のみをぶつけることは、その人と向き合うことではありませんし、その人の罪と向き合うことでもありません。また、処罰感情では、その人に自分の罪と向き合うことを促すことはできません。何が必要なのか。それは教育です。
教育を通して自分がしたことと向き合えれば、自分の何が悪かったのかを理解できます。そこから更生が始まりますし、そこから償いが始まります。
これは犯罪被害者にとっても大切なことです。被害者の心には怒りと悲しみがあることでしょう。これは苦しみの現れです。であるならば、犯罪被害者に必要なのは、加えられた苦しみが少しでも和らげられることです。それを可能にするのは償いです。
元に戻せるものであれば戻す。戻せないのであれば、その痛みを和らげるのが償いです。単に隔離し、処罰するだけでは、罪が再生産されるだけで根本的な解決には至りません。人間社会からの排除では、誰の痛みも軽くならない、誰も幸せになれないのです。
犯罪や刑罰と関わることはそうそう無いことと思いますが、同じような構図は私たちの生活の周りにいくらでもあります。迷惑をかけてしまったり、かけられたりということもそうです。喧嘩だってそうです。
それは家庭の中での一場面かもしれませんし、職場で起きることなのかもしれません。自分に不利益な状況が生じた時に、むきつけの怒りをぶつけることは、決して解決にはなりません。落ち着いて一緒に問いを立て、考える機会を作ることが大切なのです。
誰もがカインと同様の性質を持っています。いつ、どの立場に置かれるか分かりません。私たちはカインに対する神さまの姿勢を良く覚えておく必要があると思います。