降誕前第6主日礼拝説教

2021年11月14日

出エジプト記 6:2-13

「モーセの召命」

アブラハムの孫であるヤコブの時代に、飢饉が中東一帯を襲いました。そこでヤコブとその一族はエジプトの地に逃れ、そこで難を逃れました。初めのうちはヤコブの子ヨセフがファラオの宰相であったこともあり、神の民イスラエルは不自由することなくエジプトで暮らしていましたが、世代を経るにつれてヨセフの事を知らない者がファラオとなると、彼はイスラエルの民がエジプトの地で栄えていることに不満を持ちました。このファラオは、これ以上イスラエルの民が増えないように、厳しい重労働を課しました。仕事の内容は、レンガ作りです。

更には、イスラエルの民に生まれた子が男の子であったならば、殺されてしまうという命令が出されるに至って、神はご自分の民を救うことを決意されます。

神はモーセを召し出し、ファラオとの交渉に当たらせます。「主を礼拝するために、民に三日の道のりを荒れ野に行かせて、主に犠牲をささげさせてください。」

ファラオは、モーセの言葉を悪く取ってしまいました。「お前たちは怠けたいからそのようなことを言うのだ。そんなことを考えられないよう、これまでは与えていなかった仕事をも与える。しかし、作るレンガの量は減らしてはならない。」

このためにモーセはイスラエルの民に恨まれることとなってしまいました。

考えようによっては、イスラエルの民の言い分ももっともではあるのです。単に飯を食い、日常の生活を送って生を終えるというだけであれば、ある意味では彼らの生活は保障されていました。たった一つのことを諦めれば、実はエジプトでの暮らしはそれほど苦しくもなかったのです。ただ、希望を未来に繋ぐということさえ諦めてしまえば良かったのです。

エジプトの土地で奴隷として、そこに住む人々と混ざり合って生きることに決めてしまえば、自分たちが何者であって、どこから来たのか、かつて神がどのような約束をしてくださったのかということを忘れ去ってしまえば、何の悩みも無く苦しみも無く、エジプトの地で暮らすことが出来ました。

この時のイスラエルの民は、それを受け容れていたのではないかと思います。彼らはここまで追い詰められていながら、自ら立ち上がって事態を解決しようとはしてきませんでした。そんなことは出来ないと最初からあきらめていたのか、あるいは虐げられていたために心が折れてしまっていたのか。おそらくその両方でしょう。虐げられていたから無力で、また諦めざるをえなかったのでしょう。

自分の力では救いを得ること、平安を手に入れること、未来を手に入れることが出来ない民。モーセはファラオと対決するのと同時に、この民とも向き合わなければなりませんでした。

モーセは決して特別に優れた人物というわけではありません。困難に見舞われると、たちまち弱音を吐く普通の人です。ファラオとも交渉しなければならないけれど、それ以前にイスラエルの民にエジプトからの出発が必要であることを理解してもらわなければならないのに、民の心はそれ以前のところで止まってしまっています。民の関心は、今日の生活のことにのみ注がれています。

5章の最後でモーセは神に「なぜこの民に災いをくだされるのですか。」と訴えていますが、半分は愚痴ではないかと思います。これに答えて神は励ましの言葉を語られます。

この時、神さまは御自身の御名を告げられました。

神さまの御名を日本語に訳しますと、「わたしはある」という意味になります。これは神さまが過去から未来まで永遠に存在なさる方であると同時に、「わたしは、わたしがあるべきようにある」という意味を持つ名前です。随分回りくどい言い方になってしまいましたが、「私は自分の意志を自由に行う」と言う意味であると理解して良いでしょう。

私たちは自分にとって喜ばしい状況にある時には「神さまが共に居てくださる」ということを感じられると思います。逆に、苦しむ時には心に「この世に神はないのか」と言う言葉が浮かぶことがあると思います。これは、神さまが居てくださるのであれば、なぜ今の私を救ってくださらないのかという問いであり訴えです。イスラエルの民の心にも浮かんだかもしれません。

これに対して神さまは「あなたが喜んでいる時も苦しんでいる時も、私はあなたと一緒に居るのだ。あなたがどのように感じたとしても、わたしは一緒に居るのだ。」と、御自分について明らかにされます。

ついで、祖先との約束に言及なさいます。アブラハムの時代、神さまはアブラハムに「あなたの子孫を星の数ほどに増やす」と約束をなさいました。今、ファラオによって子孫を増やすことができなくなっていますが、神さまは決して祖先との約束をお忘れになったわけではありません。神さまはイスラエルの人々の苦しむ声を聞き、今改めてこの約束を果たすと仰いました。重い労働から解放し、自由に、豊かに生きられる土地へと導き出すことを約束してくださいました。

モーセはこの御言葉を受けてイスラエルの民にその通り伝えますが、疲れ果てていた民はモーセの言葉を聞こうとしませんでした。

モーセは悔しかったのではないかと思います。「神さまが救ってくださると言うのになぜそれを聞かないのか。神さまが希望を回復してくださると言うのに、なぜその言葉に耳を貸そうとしないのか。」と、地団駄を踏みたくなったのではないかと想像します。

モーセは自分に説得力が無いことを嘆きます。だから、神さまが「ファラオにも同じことを言え」とお命じになっても、「身内ですら聞かないのにファラオが聞くでしょうか?」と問いました。

すると神さまは、それならと、別の命令をお与えになりました。その内容は最早、「誰を説得せよ」というものではなく、「イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せ」という、直接的な行動を命じるものでした。

この後、神さまはモーセを通して実力を発揮なさいます。十の災いをによってファラオの心をくじき、イスラエルの民がエジプトから去ることを了承させます。

出エジプトの旅は40年にわたる長い旅となりました。その間に世代が完全に交代してしまいましたので、この時にモーセの説得を受けていた人々、言い換えますと旅立ちを渋っていた人々がカナンの土地に入ることはありませんでした。

では、彼らにとって荒れ野での40年の旅は無意味だったのでしょうか。彼らが旅立たなければ、彼らの子や孫は神さまが約束してくださった土地に入ることはありませんでした。彼らが出発を決意したから、渋々でも立ち上がって歩き始めたからこそ、希望を未来の世代に繋ぐことができたのです。

どうしても私たちは今の自分が受け取れる物に関心がいってしまいますが、この年齢になった私たちが考えるべきことは、次の世代、次の次の世代に何を受け継ぐことができるかということです。

「では何をすれば良いのか、答えをくれ。」と言いたくなるかもしれません。すぐに結果、あるいは結果に繋がる答えを見せてもらえば安心できますし、特に疲れている時には考えるよりも答えを示してもらった方がありがたいというのは事実です。でも、未来を見ることのできない私たちにとっては、どこを目指して歩こうとするのかを決めることは出来ても、また歩き続けることはできても、その道がどこに至るのかを前もって知ることは出来ません。

そんな道なのに歩かなければいけないのか。否が応でも歩くんです。

今日私たちが見たのは、神さまの御姿を見られなかった民が神さまと共に歩み始めるまでの過程です。今の私たちは既に神さまと共に歩み始めています。

カナンの土地を私たちが見ることはあるのでしょうか。御国の完成を私たちがこの地上にある間に見ることはできるのでしょうか。多分見られません。モーセがカナンの土地に入れなかったように。またエジプトから出発した世代がカナンの土地に入れなかったように。それなのになぜ歩くのでしょうか。子どもたちが乳と蜜の流れる土地を見られるように。孫たちがカナンの地を見られるように私たちは歩くのです。

そんな私たちには何の報いも無いのか。私たち自身に与えられる希望な無いのでしょうか。

あります。

私たち自身には、神さまと共に歩んだという喜びが約束されています。そして神さまが迎え入れてくださるという希望があります。

その日、私たちが神さまの御腕の中に迎え入れられる日、神さまは私たちを労ってくださいます。

「良く歩き通した。良く頑張った。」と褒めてくださいます。

私たちは答えるでしょう。「私は道の途中で多くの過ちを犯しました。たびたび道から外れてしまいました。」

イエスさまが答えてくださいます。

「それでも、ここまで来たじゃないか。」

旅の途中で犯した過ちは、イエスさまが執り成してくださいます。だから私たちは安心してこの道を歩んで良いんです。

今日読まれた箇所の次にはモーセとアロンの系図が記されています。祖先が残した道の末にモーセは立っています。そして、自分に与えられた道を歩もうとしています。モーセの後にも道は続きます。その道は私たちに続き、また私たちの道は未来の世代へと続いています。だから私たちは歩み続けます。険しい道が目の前に現れたとしても、「これ本当に大丈夫か?」と心配にさせられるような道が目の前に現れたとしても、私たちは今日の歩みを止めないのです。

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