降誕前第5主日礼拝説教

2021年11月21日

サムエル記上 16:1-13

「油注がれた者」

ダビデは旧約聖書に登場する王たちの中でも最も偉大な王として描かれています。今日のユダヤ人たちも、ダビデのことは理想の王として尊敬しています。しかし、元来イスラエルの民には人間の王は立てられるべきではありませんでした。なぜならば、イスラエルの民の王とは神さま御自身だからです。

エジプトにおける苦役からイスラエルの民を救い出されたのは神さまでした。荒れ野における40年の旅を導かれたのは神さまでした。旅の途中、危機に陥るたびに民を助け、外敵に襲われた際に戦われたのは神さまでした。神さまこそがイスラエルの民を守り、導く王だったので、彼らには人間の王は必要ありませんでしたし、人間の王を立てるべきではありませんでした。

カナンの地に入ったイスラエルは部族ごとに分かれて定住するようになります。この時、各部族のうちのどれか一つが周辺の国々からの攻撃を受け、自分たちの力だけではこれに対処できなくなってしまうと、他の部族と協力して自分たちを守ります。この時、神さまに選ばれた人物が士師として立ち上がり、神さまの御心によって複数の部族を率いて困難に立ち向かいました。定住初期のイスラエルは諸部族の連合体であると言えます。

ところが、外国との摩擦が頻繁に繰り返されるようになりますと、もはや連合体の力では対処しきれなくなってしまいます。そこでイスラエルの民は周辺の国々にならって王を頂き、統一した力で国を治め、外国に対抗することを求め始めました。

諸部族の長老は預言者サムエルの許を訪れ、王制への移行を求めます。サムエルにとって、この要求は受け入れがたいものでしたが、神さまはサムエルに民の要求を受け入れ、王を選ぶようにお命じになります。そこでサムエルは民に王を立てることの危険性を警告した上で王制への移行を了承します。

この時、王として神に選ばれたのが、イスラエルの初代国王サウルです。彼は体格も群を抜いて優れ、また高い能力も持っていました。イスラエルの民を率いてアンモンやペリシテと戦い勝利します。サウルの支配下にあってイスラエルの民は強くなりましたが、それがまずかったのかもしれません。アマレクとの戦いにおいてもイスラエルの民は勝利しますが、この時、神さまの御心に背いて戦利品を取ろうとします。これは神さまの命に背くことであり、神さまを嘆かせました。このことはサムエルにとっても嘆かわしい出来事で、サムエルは死ぬまでサウルのことを嘆き続けました。

王になるということは、大きな権限、力を預けられるということです。特にイスラエルの民にとっては、それは神さまから与えられた力であり、その力は神さまの御心を行うために用いられるべき力でした。それなのにサウルは堕落し、その力を自らの欲望を満たすために用いようとしたのです。

サムエルの嘆きとは、サウルの行いがイスラエルの民が神さまの御心から離れて、もう戻ることができなくなってしまったことを象徴しているように思えたから生じた嘆きなのでしょう。

嘆くサムエルに神さまはサウルを王位から退けたことを告げられました。そして、新たな王を選ぶためにサムエルをベツレヘムに遣わされます。

ベツレヘム、ヘブル語で「パンの家」という意味の名を持つこの町は、死海の西側概ね20キロの場所にあり、12部族の内のユダに属する町でした。この町に住むエッサイの息子の中に次の王となるべき人物が居ると神さまはサムエルにお告げになりました。それはつまり、イスラエルを支配すべき部族がサウルの属するベニヤミン族からユダ族に移ったということを意味します。

サウルから王たるべき資格が剥奪され、新たな王が選ばれるためにサムエルがユダの地ベツレヘムに向かうということがサウルに漏れると、サウルは自らの地位を守るためにサムエルがベツレヘムに到着する前にサムエルを暗殺するかもしれません。そこで神さまは、本来の目的を隠して生贄を捧げるため、つまり「礼拝を行うために来た」という体裁でベツレヘムを訪れ、その礼拝にエッサイと息子たちを招くようにと知恵を授けます。新たな王はその時に、礼拝の中で選ばれるのだと告げられました。

エッサイには8人の息子が居ました。生贄の会食、礼拝の中でエッサイの息子たちが牽き出されてサムエルの目に触れます。この時サムエルはエリアブに注目し、この人こそ相応しいと考えました。その理由を聖書は記していませんが、きっとエリアブは立派な体格ですとか、尊敬を受けるに値するような物腰や利口さを感じさせるような物言いなど、王として相応しそうな雰囲気を持っていたのでしょう。

初めて会った人に持つ印象については直観が大きな影響力を持つと言われています。カルフォルニア大学の心理学者、アルバート・メラビアンによれば、初めて会った人に対して持つ印象は、3秒で決まるそうです。しかも、その時の印象は視覚情報、つまり見た目で半分は決まってしまうのだそうです。きっとサムエルもエリアブに対して直観的に好印象を抱いたのでしょう。

しかし、サムエルの思いに反して神さまはエリアブを選ばれませんでした。その理由を「容姿や背の高さに目を向けるな。私は人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」と仰っています。

人は他者の心根がどうであるかを知ることが出来ませんが、神さまは全てをご存知です。エリアブはサムエルの目には優れた資質を感じさせる人物として映りましたが、神さまはエリアブを選ばれませんでした。

次々とエッサイの息子たちが紹介されますが、その誰をも神さまは選ばれませんでした。そこでサムエルはエッサイに、これで全員なのかと問いました。するとエッサイは末の子が外で羊の番をしていると答えます。おそらく末の子は生贄の食事という公的に大切な儀式への出席が認められないくらいの少年だったのでしょう。サムエルは、その子も食事に招くよう依頼します。

連れて来られた少年はダビデと言い、小さいながらも優れた資質を持つことを予感させるような容姿を持っていました。神さまはこの子に油を注ぐよう、サムエルに命じられました。もちろん、神さまは容姿によってダビデを選ばれたのではありません。これは私の想像ですが、もっとも小さな子であったということが、その理由だったのではないでしょうか。

サムエルによって油を注がれ、ダビデはメシア「油注がれた者」となりました。これは王として立てられたことを意味します。

この時からダビデは、神さまの霊を受けるようになりました。これは預言する状態、つまり神さまの御心を周囲の人々に語る状態になったということを意味しています。サウルの時もそうでしたが、油を注がれた者は神さまの霊を受け、御言葉を語るようになるのです。

この後、冒頭でも申し上げました通りダビデは旧約聖書に登場する王の中でも最も優れた王となります。北イスラエル王国と南ユダ王国の二つの王国の王となり、分かれていたイスラエルの民を統一し、偉大な王国を築いたからです。イスラエルの民は、ダビデによって最も繁栄した時代を迎えます。が、それは同時に、ダビデ以降のイスラエルの民は下り坂に向かうということでもあります。

事実、イスラエルの民は堕落し、ついには独立を失います。苦境の中で彼らは再びダビデのような力強い王が現れて、自分たちを救ってくれることを祈ります。その祈りに答えて神さまが地上に遣わされた方、真の王こそ、私たちの主、イエスさまです。

イエスさまは血筋においてもダビデの子孫でしたが、何よりも神の御子でした。このお方は大きな方としてはお生まれになりませんでした。それは体格という意味ではありません。ダビデが兄弟の中で最も小さな者であったように、イエスさまは社会の中では小さな者、普通の庶民としてお生まれになりました。そして、イエスさまが洗礼者ヨハネによって洗礼をお受けになると、神さまの霊が鳩のようにイエスさまの上に降りました。神さまの霊をお受けになったのです。

ダビデはサムエルから油を注がれると神さまの霊を受けました。イエスさまが洗礼をお受けになった時にも、やはり神さまの霊をお受けになりました。実は私たちも神さまの霊を受けています。洗礼に続く按手によって聖霊が注がれるのです。

按手と言う言葉を私たちが耳にする機会と言いますと、牧師として任命される際に受ける按手礼のこととして聞くことが多いと思います。ですので、按手は牧師にしか関係が無いのではないかと考えがちですが、実は皆さんも按手を受けています。

例えば幼児洗礼を受けた方は、堅信礼あるいは信仰告白式の折りに按手を受けていますし、大人になってから洗礼を受けた方は洗礼式の直後に牧師が手を置き、聖霊の注ぎを祈っています。それが按手です。

初期の教会においては洗礼の前後に数回にわたって油の注ぎを受けていました。これはダビデが神さまの霊を受けたのと同じように洗礼を受ける者が神さまの霊を受け、神さまの霊の力によって悪魔の力を退けていただけるように願って行われていました。

私たちにも神さまの霊は注がれています。もちろん私たちは王になるわけではありません。私たちの王はイエスさまお一人です。しかし、小さな私たちにも神さまの御心を行うために必要な力が聖霊を通して与えられており、その力は私たちの内において働くのです。神さまの霊が働くから、私たちは折りにふれて神さまの御心を行うのです。それは御言葉を伝えるということでもあります。神さまの霊は私たちを悪から守り、愛の業を行わせます。愛の業は神さまの御心を伝えます。

私たちは小さな者です。それでも私たちには神さまの霊が注がれています。私たちが神さまの御心を行う時、そこに働くのは私たちの力ではありません。神さまの霊です。

私たちは王ではありません。私たちは誰に対しても支配権を持っていません。自分自身に対しても支配権を持っていません。私たちを支配なさるのは神さまお一人です。そんな私たちに神さまの御心を行わせるのは、私たちに注がれた神さまの霊、王なるイエスさまもお受けになった神さまの霊、聖霊です。私たちにできること、そして私たちがすべきことは何か。それは聖霊が私たちの内なる霊に十全の力をもって働きかけ、御心をなしてくださること、導きを与えてくださることを願い求めて祈ることです。

今日の主日は教会の暦の上では一年の最後の主日です。来週からはアドヴェント、待降節です。イエスさまのお生まれを待つ4週間から教会の暦は始まります。真の王を待つ日々から教会の、信仰者の生活は始まります。王よ来てください、イエスさまおいでくださいとの祈りから、私たちの生活は始まります。

世界は間もなく真の王をお迎えします。祈りつつイエスさまのお生まれに相応しい準備をいたしましょう。

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