2021年11月28日
イザヤ書 51:4-12
「バビロンからの帰り道」
いよいよアドヴェントを迎えました。説教壇に掛けられました覆い(アンテペンディウム)の色も、先週までは緑でしたが待降節の間は紫が用いられます。この色には「待望」という意味があります。待降節は文字通り、神の御子のご降誕を待望する時期です。
捕囚の地バビロンにあって、イスラエルの民もずっと待ち望みつつ、60年の年月を過ごしていました。今日読まれた箇所は、捕囚期の最後の時期にイザヤを通して与えられた預言です。
イスラエルの民はバビロニアの地に連れて来られて、やっと神さまとの関係が自分たちにとってどれほど大切であったかに気付きました。しかし、今となっては神殿で祭儀を行うことはできません。そこで彼らは聖書の言葉を礼拝の中心に据えました。
聖書に書かれていること、特にモーセが記したとされる5つの律法を読むということは、神さまとイスラエルの民との関りを思い出すということであり、また神さまの教えられた生き方について確かめるということでした。
51章でも1節から2節にかけて、イスラエルの民に対する呼びかけがなされていますが、ここでは神さまが人を創造なさったということやアブラハムを通して約束された祝福が語られています。
それから、3節においてはエルサレムの回復が語られています。バビロニアに攻められたエルサレムは廃墟となっていました。その荒れ果てた土地を再び豊かな土地、人々が安心して住むことのできる土地として再興されると、神さまは約束してくださいました。
バビロニアの地にあって、イスラエルの人々は故郷に帰ることを夢見ていました。毎週の礼拝ごとに聖書の御言葉を聞き、「いつか帰れますように」と祈りました。その祈りは子から孫へと受け継がれていました。
その姿は、バビロニアの国民にとっては奇妙に思えたかもしれません。既にエルサレムのことを知っている世代はほとんど居なくなってしまい、今生きているイスラエルの人たちはバビロニアで生まれた人たちばかりです。普通に考えればバビロニアこそが、彼らにとって生まれ育った故郷であるはずなのに、この人たちは頑なに「私たちはカナンの土地に帰る。」と言い続け、祈り続けているのです。
それに、カナンに、エルサレムに帰ったところで何があるというのでしょう。60年前の包囲戦の時に城壁も神殿も住居もことごとく破壊されているというのに。カナンの土地に帰るよりも、バビロニアに居た方が安全で快適であるはずです。
それを聞かされると、イスラエルの人々の内の特に若い人々は考えこんでしまったのではないかと思います。
だから、バビロニアがペルシャの王キュロス2世によって征服され、エルサレムへの帰還と神殿の再建が許可されたにも関わらず、なかなか腰を上げませんでした。エルサレムからの移住の際には3回に分けてバビロニアに連れて来られました。その時の人数は男だけで4600人ですから、全体では1万人を超えるはずです。仮にそれと同じ人数がエルサレムに帰るとしても、中には当然年寄りも子どもも居ることでしょう。困難な旅となることは容易に想像できました。彼らは帰って良いと言われても帰るに帰れなかったのです。
しかし、イザヤに告げられた神さまの御言葉は断固としていました。神さまは「これから起こる出来事は、単にあなたたちへの救いであるばかりではなく、全ての人々、世界中の人々への希望となるのだ」と告げられます。しかも、この出来事は世代を超えて、時代をも超えて語り継がれることとなる。だから、自分と自分の周りにある物事にだけ目を向けるのではなく、天と地を見なさい、広い視野をもってこれから私がしようとしていることを見なさいと言われます。
視野を大きくするということは難しいことです。それは考えるべきことがとんでもなく増えてしまうということでもあるからです。そこで神さまは逆に目線を小さな世界に向けさせることで、御自分が人間の世界をどのようにご覧になっているのか、またどのように関わっておられるのかを教えられます。
「地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても」という言葉は、まるで人間のことを軽んじておられるかのように思える言葉ですが、そうではありません。
ぶよの卵が産み落とされてから孵化するまでには10日ほどかかります。幼虫から蛹になるまでは1か月ほど、蛹の帰還が1週間前後です。成虫になってからは1か月前後しか生きませんので、卵が孵ってからの寿命は2-3か月ほどです。ほんの短い寿命しか持っていません。
「ぶよを観察してごらん。あなたが見ている間に彼らはどんどん世代を交代していく。彼らの時間のスケールとあなたたちの時間のスケールは違うんだ。彼らにとってはあなたの動きはとてもゆっくりで、ほとんど動いていないようにすら見えるかもしれない。でも、あなたたちが何かをしようと決めたら、ぶよには到底できないようなことも出来てしまうだろう。私も同じなんだ。私が何かをしようと決めたならば、あなたたちには想像もできないような大きなことすらもできるのだよ。」と教えられます。
神さまの救いは、人間の感覚では及びもつかないほどの大きなスケールで実現するのです。だから、同じ小さな存在であるバビロニアの人々が何を言おうとも、恐れずに私が命じた通りにしなさいと命じられます。
そして、改めてモーセの律法に記録されている、神さまと人との関りを思い出させます。
ラハブとは、紅海に住んでいるとされた怪物で、混沌の象徴でもありますが、ここではエジプトの別名として用いられています。
エジプトという、巨大な力をもって人を捉え、戸惑わせ、混乱させ、苦しめる怪物を、神さまは過越しの時に撃たれました。モーセに率いられたイスラエルの人々は、通ることのできようはずがない道を、神さまが海の中に開かれた道を通ってカナンの土地に入っていきました。それと同じように、バビロニアからの道を神さまは守り導かれます。
そこで起きる一つ一つの出来事は、歩む者にとって、ある時は苦痛となるかもしれません。ある時は悲しみとなるかもしれません。でも、全体を見渡してみると、この旅は、出エジプトの旅がイスラエルの人々にとって信仰と希望の基となったのと同じように、神さまを信じることによって与えられる確かな希望を全ての人々に伝えるのです。
私たちの人生の旅も同じです。日々の生活の中で様々なことが起こります。その一つ一つを私たちは喜んだり、悲しんだり、悔しがったり、楽しんだりします。それらの出来事は決して単独で完結するものではありません。それらの歩みの全てが繋がって一つの流れを持って、神さまの御心を世の人々に伝えているのです。
今の時代は、ちょっと過酷な時代だと思います。伝達される情報の量が多過ぎて、自分自身を見失ってしまうことが多いのではないかと心配になります。
私たちは「すごい人」の情報に、あまりにも多く接しています。そのために、その「すごい人」と自分を比較してしまうのです。「すごい人がこんなにたくさん居るのに、自分は何もできない。」ということに悩む若者が多いように思います。いえ、年配の方にも悩みがあるのかもしれません。「自分は何をできたのだろうか。」という問いは悩みになってしまうかもしれません。
でも、神さまの目からご覧になると、そんな風に思う必要は無いのです。誰かを愛せたら、誰かを大切に思えたら、それで充分なんです。それこそが一番大切なことだから。
徹底的に人を愛された方のことを思い出してみてください。この方は国を動かすような大きなことをなさったでしょうか。違いますよね。片田舎でお生まれになり、罪びととして死んで行かれた。ただ、この方はひたすらに人を愛された。この方の生きた御姿こそ、神さまの御心を完全に表しているのです。
私たちも小さい者ながら、この御姿にならって生きようとしています。それで充分なのです。誰かを愛せれば、それで充分なのです。
何ができるのだろうか、何ができたのだろうか。そんなことで悩む必要は無いんです。私たちには理解できないスケールで、神さまは私たちを御業のためにお用いになっているのですから。
なぜ私たちはこの道を歩まなければならないのでしょうか。苦しみの多い道なのに。それは、神さまが御心を行うため、愛を伝えるために、私たちの一歩一歩を用いられるからです。
いま、私たちは愛を伝えるために旅をされた方のお生まれを待っています。この世に光を齎すために、私たちの心に光を灯してくださった方のお生まれを待っています。私たちは、私たちに与えられた光を世に向かってかざし、全ての人のために光が来られたことを告げ知らせるのです。