2021年11月7日
創世記 15:1-18a
「アブラムとの契約」
アブラムはカルデアのウルという大きな都で生まれました。ウルは今のイラク、ユーフラテス川がペルシャ湾に注ぐ河口付近にあった町です。アブラムの父テラは、アブラムの夫婦、アブラムにとっては甥となるロトを連れてウルを出発し、カナンの土地に向かいます。しかし、ハランという土地まで来た所でテラは亡くなります。その時、主はアブラムに声を掛け、アブラムを通して全ての民が祝福されると約束なさいます。
この約束を信じてアブラムは旅を再開します。途中、困難なこともありましたが、アブラムは旅を続けます。サレムの王メルキゼデクという人物が贈り物を持ってやってきた時には、「私はただ神さまによってのみ豊かにしていただける」として、この贈り物を辞退します。
すると主の御言葉が彼に臨みました。主の他、誰からも恵みを頂くことはないというアブラムの姿勢はつまり、自分が上にいただくのはただ神のみであるという、彼の忠実さの現れであると言えるでしょう。そこで改めて主は、アブラムを守り、豊かにすることを約束されました。
しかし、この時アブラムの口から出たのは感謝の気持ちではなく、質問でした。それもどちらかというと質問に形を変えた不満です。
「わたしには子どもがありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」
この言葉の裏には、「どれほど豊かにされたところでそれを受け継ぐ子どもが居なければ、意味は無いではないですか。」という思いが込められています。
この当時、家を相続する男子が居ない場合、その家の財産は奴隷が相続することになっていました。子どものいないアブラムにとっては、その喜びは完全ではなかったのです。神さまは祝福を約束してくださいましたが、子どもが与えられないのでは、祝福の約束は果たされないのと同じだと彼は感じていました。今の彼には、困難を乗り越えてまで旅を続ける理由が分からなくなっていました。
主は彼に答えます。「あなたの家を継ぐのは、あなたから生まれる者である。」
さらに主はアブラムを外に連れ出して夜空を見上げるようにお命じになりました。
皆さんは歩く時、どこを見て歩いているか意識したことがありますか。普段はあまり意識しませんよね。実は神学校に入って、つまり東京に出てきてからすぐに、歩く人々の目線が気になりはじめました。
東京を歩く人の目線は低いと思います。うつむいて歩いている人が多い。何故そんな風に感じたかと言いますと、神学生仲間や教授と町ですれ違う時に、こちらから声を掛けないと気付いてもらえないということが非常に多かったからなんです。それ以来、道を歩く人の目線に注目するようになりましたが、足元を見て歩く人がとても多いことに気付かされました。それと、スマートフォンを操作しながら歩く人も多いですね。目線が下や手元に固定されているから、知人や友人がかなり近くに居ても気付かないのです。
都会の人は忙しいですよね。すべきこと、考えるべきことがとても多くて、歩くということは「移動の手段」と言いますか、作業でしかありません。その対極にあるのが、子どもたち歩き方です。子どもは実に色々な物を見ながら歩いています。だから、たくさんのことに気付き、興味を惹かれ、すぐに歩みを止めてしまいます。忙しい大人にとっては「またこんなところで引っ掛かって。早くしてよね。」と言いたくなるところですが、人生の旅という道を歩く時には、この子どもの歩き方に倣うべきではないかと思います。
おそらく、アブラムもうつむいて歩いていたのでしょう。「この旅に意味はあるのだろうか。」などと考えながら歩いていたのでは、目線が下がるのも当然です。そのアブラムを主は天幕の外に連れ出し、空を見上げろと仰います。その上で一言「あなたの子孫はこのようになる。」と諭されました。これで彼の心は開かれてしまいました。
それまでアブラムは地べたの上のことだけを見て歩いていました。自分の年齢、妻の年齢、一族を存続させるための手段などを数え、ため息をついてあるいていました。しかし、天を仰いだ時、彼はもっと大きな神の恵みに気付きます。これほど大きな恵みが彼の上に広がっていることに改めて気付かされます。
ずっと眺めていると星が動いていることにも気付きます。それらは全て神さまが配置なさったもので、神さまの御心によって動いています。月が沈み、日が昇ります。それも全て神さまの御業です。それほどの大きな力を持つ神さまが祝福を約束してくださった。
神さまが共に旅をしてくださっている。アブラムはそのことに気付かされました。ところが彼は念を押すように質問を重ねます。
「この土地を私が継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」
神さまは雌牛と雌山羊、雄羊と山鳩、鳩の雛を用意させ、牛と山羊、羊を真っ二つに割いて備えさせます。これは古い契約の儀式です。神さまはそれまで言葉で一方的に告げられていた約束を、改めて具体的な形で結ばれました。
眠りに落ちたアブラムに再び主の御言葉が望みます。その内容は、将来、子孫が受けるべき苦しみと、そこからの救いの予告でした。それは後に出エジプトの出来事として成就します。
人生という旅は困難の多い、悩みの多い道のりです。考えるべきことがたくさんあります。しかし、だからと言って足元だけを見て歩んでいたのでは、せっかく神さまが備えてくださった喜びに気付かず通り過ぎてしまいます。神さまがいつでも一緒に居てくださっているのだということを忘れ、ただ足を動かすだけになってしまいます。
しかし、目を上げて歩いてみると、とても多くの喜びが私たちを取り囲んでいるということに気付きます。それらの一つ一つが私たちに希望を語り掛けています。
今日、神さまは二つに割かれた犠牲を通してアブラムとの間に契約を結ばれました。私たちとの間にはどのような契約を結んでくださるのでしょうか。神さまは、アブラムとの間に結ばれた契約にまさる契約を結んでくださいました。犠牲の動物とはくらべものにならないほど尊い犠牲を通して契約を結んでくださいました。独り子イエスさまの血によって、契約を結んでくださいました。
私たちにも考えるべきこと、悩むべきことが多くあります。しかし、神さまは御子の血によって祝福を約束してくださいました。だから私たちは目線を上げて、天を見上げて、空の向こうにある未来を、将来の希望を見据えて旅をするのです。