待降節第3主日礼拝説教

2021年12月12日

マルコによる福音書 1:1-8

「険しい道は平らに」

間もなく主イエスのご降誕を迎えようとしています。イエスさまが地上に遣わされて、良い知らせを語り聞かせてくださる。私たちはそれを今かいまかと待っています。

マルコは良い知らせ、福音をあっさりと書き出しています。

「神の子イエス・キリストの福音の初め。」

日本語ではたった6つの単語、ギリシャ語でも7つの単語からなる、この短い言葉に全てが詰まっています。イエスさまが神の御子であり、救い主であり、良き知らせを携えて私たちの所においでくださった。その物語がこれから始まる。

このことは唐突に始まったのではありません。「貴い方のお生まれを皆で楽しく祝おうとその日数えて待つうちに、何百年も経ちました。」これは子ども賛美歌「むかしユダヤの人々は」の第2節ですが、まさにその通り、ユダヤの人々は数百年もの年月にわたって、救い主がお生まれになって慰めと赦しを与えてくださることを待っていました。

マルコは救い主のご降誕が預言者イザヤによって既に予告されていたと述べています。イザヤは神の怒りを免れるためには悔い改めなければならないと告げていました。それなのに民はイザヤの言葉に耳を貸しませんでした。自らの罪深さを認められなかった民はバビロニアによって撃たれ、捕囚期という苦しい時代を生きなければならなくなります。

しかし、その苦しみの末には慰めと許し、更には罪の全てに倍する報いを受けられると約束してくださいました。その約束が、今果たされようとしています。

約束の成就に先立って、一人の人物が登場します。洗礼者ヨハネです。

彼は呼び掛けます。「間も無く救い主がおいでになる。この方をお迎えするに相応しい準備を整えよ。」

ヨハネの呼び掛けには厳しさがありました。「生き方を改めなさい。これまでの罪を悔い、生まれ変わって正しい生き方をしなさい。」

ヨハネ自身が、実にストイックに生きていました。彼は神さまに自分自身を捧げた者として生きていました。荒れ野に住み、人との交流を絶ち、隠者として生きていました。彼の生活はあたかも荒れ野をさまよった出エジプトの旅を再現しているかのようです。

彼はイナゴと野蜜を食べ、ラクダの毛皮を着ていたと記されています。食べ物については、イナゴとはイナゴマメのことだったのではないかとか、野蜜とはイナゴマメの鞘のことだったのではないかなど、諸説あります。なるほど、イナゴはタンパク質ですし、ハチミツは糖分の塊ですのでエネルギーにはなりますが、これではあまりにも栄養に偏りがあります。そう考えますと、イナゴマメを食べていたとする方が自然ではあります。

イナゴマメは最も貧しい人々が食べる物として位置づけられていましたから、ヨハネが食べたのがイナゴであったにせよ、あるいはイナゴマメであったにせよ、どちらにしても極めて質素な食事であることを伺わせます。

食べ物にこだわらず質素に生きる。自らを着飾るために紡ぐこともしない。ヨハネは言葉によってだけではなく、そのような生活を通して、エジプトを出た民が荒れ野をさまよっていたころ、みんながまだ貧しかったころのように神さまとの直接の関係の中に戻れと、立ち返りを呼び掛けていました。

福音書に記されているヨハネの生き方から受ける印象は厳しさです。この厳しさは、人を選別します。ヨハネの歩む道は険しいのです。

もちろん洗礼者ヨハネは人々に対して彼と全く同じような生き方をせよと命じていたわけではありません。神さまに立ち返れ、そのために自らの罪深さを知り、悔い改めよと呼び掛けているのです。しかし、その通りに生きられる人は多くはありません。生活そのものが罪を突き付けるからです。

神を愛しなさい、神を称えなさいと言われても、不幸と苦しみの中で神を愛し抜くことが出来る人はどれくらい居るでしょうか。人を愛しなさいと言われても、全ての人を愛することなど不可能です。

律法に定められたように生きられる人と生きられない人はハッキリと別れます。そこには、「この部分は見習うことにして、別の部分は今まで通りの生活を続けよう」というような曖昧さを許しません。全ての人がヨハネの呼び掛けるような生き方を出来るわけではありません。と言うよりも、ほとんどの人はヨハネの言う立ち返りは出来ないでしょう。

ヨハネは自分よりはるかに優れた方がおいでになるとも述べています。この方こそイエスさまのことです。

イエスさまの語り口はヨハネとは対照的です。「質素に生きよ」という言葉と「贅沢をしなくても私たちは生きられるんだよ」という言葉は、似たようなことを言っているようでも、その効果はまるで違います。前者は命令であり、それを聞く者を縛りますが、後者は解放します。

ここに、律法や預言の限界を見ます。福音はその限界を突破します。マルコは福音書の冒頭で、「イエスさまは限界を突破された」と宣言しているのです。

イエスさまは荒れ野での断食の後は普通の生活をなさいました。マタイでは「大食漢で大酒飲み」と記されていますが、決して飽きるほど召し上がっていたわけでもなく、ベロンベロンになるまで酔っ払っていたわけでもないでしょう。その時ある物を健康的に召し上がっていただけのに「神に仕える者なのに質素じゃない」と、レッテル貼りをされたのです。

今ある暮らしの中に幸せはあるんだよ。そのようにイエスさまは教えてくださるのです。

たったそれだけのことが、ユダヤの人々にとっては救いだったのです。

今の私たちはユダヤの人々に共感できるのではないでしょうか。普通のことが出来ていないからです。普通のことへの憧れを抱かざるを得ないほどに、普通のことが出来ていないのです。

「いつも通りのことをすると、周りの人に迷惑を掛けるのではないか、怒られるのではないか。」という不安がいつも付きまとっています。息苦しさを感じています。そして、いつの間にかこの息苦しさは不満へと変わり、私たちは苦しんでいます。クリスマスを祝う、御子のご降誕を祝う、一年でも一番喜ばしい時なのに、全身でそれを表すことが出来ない。それが悲しくて、悔しくて、苦しい。

でもイエスさまは教えてくださいます。「今ある暮らしの中に幸せはあるんだよ。今あなたの手の中に幸せはあるんだよ。」と。

ヨハネの呼び掛けは「谷を埋め、山を削って道を平らにせよ」という命令でした。険しい時代に、その険しさを切り開いて道を作り、そこを歩めという、険しさに険しさを重ねたような道です。一方、イエスさまの御言葉はまるで「険しい道だと思うかもしれないけど、実は平らなんだよ。」とでも言わんばかりの優しい諭しでした。

イザヤは「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」と記しています。この羊飼いこそイエスさまです。

イエスさまは、実に楽しそうに道を歩いて行かれます。本当は歩きにくい上り坂なのかもしれません。でもイエスさまは幸せそうに歩んで行かれます。その懐には小羊が抱かれています。もしかすると、小羊はこの坂を自分の足では登れないのかもしれません。その小羊はあなたです。

私たちは福音の初めを見ようとしています。イエスさまと共に生きるこの喜びをどのように言い表しましょう。

「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。」

やっぱり力いっぱい喜ぶことにしましょう。

説教目次へ