待降節第4主日礼拝説教

2021年12月19日

サムエル記上 2:1-10

「母の祈り」

今日読まれた箇所は、二人の母親、正確にはこれから母親になろうとしている女性が捧げた祈りが主題です。これらの二つの祈りは、とても良く似ています。

イスラエルの12部族にエフライムという一族がありました。そのエフライム族の人エルカナには2人の妻があり、一人はハンナ、もう一人はペニナと言いました。ペニナには子どもがありましたが、ハンナには子がありませんでした。ペニナはハンナを敵視しており、子どもが無いことを理由にいじめていました。

この一家は毎年、生贄をささげるためにシロという町にあった神殿を訪れていましたが、生贄の食卓の時に、まるで子が無いということを突き付けられるような気持ちになってしまい、ハンナは食事もできなくなるほどふさぎ込んでしまいました。夫はハンナを愛していたので、何とかハンナを慰めようと優しい言葉をかけますが、それでもハンナの気持ちは晴れません。

ハンナは神殿で主に祈りを捧げました。「どうか私を省み、苦しみをご覧ください。もし男の子をお授けくださったなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してカミソリを当てません。」

それは長い長い祈りでした。当時の祈りは、ほとんどの場合声に出して捧げられていましたが、この時ハンナは口の中でつぶやくようにして祈っていました。近くに居てもハンナの祈りの声が聞こえないために、祭司のエリはハンナが酒に酔っているのだと勘違いしてしまいました。そこでハンナは自分が酔っていないことを説明し、なぜこんなにも長く祈っているのか、理由を打ち明けました。するとエリも一緒に祈ってくれました。

翌日、一家は改めて礼拝し、自分たちの家に帰って行きました。しばらくしてハンナは身ごもり、男の子を産み、サムエルと名付けました。

ハンナはサムエルが乳離れすると、約束を果たすためにサムエルを神殿に連れて行き、神さまにお仕えする者として育てるよう、祭司エリに我が子を預けます。その時に捧げられた祈りが、今日の主題です。

子どもを授かったことは、ハンナにとってはとても大きな喜びだったことでしょう。ハンナは子どもが生まれたことによって、自分の尊厳が回復されたことを喜び、その気持ちを素直に歌っています。もう苦しめられることはない。それまでは子が無いことを理由にペニナにいじめられていたのですから、この子の誕生は彼女にとって大きな救いであったはずです。

ハンナにとってペニナは敵でした。長年に渡ってさんざんにいびられてきたのですから、そう思うのも当然でしょう。だから、子が生まれた時には「ざまあみろ」とでも言いたくなるような誇らしい気持ちでいっぱいだったに違いありません。

「敵に対して口を大きく開く」という言葉はハンナの高ぶった気持ちを良く表しています。ハンナはとても素直な女性だったのでしょう。それを包み隠さず言葉にしています。そして同時に謙虚さを忘れない人であったことも良く分かります。ペニナに対して誇るような言葉のすぐあとに、自分を戒め、力ある業をなさったのはどなたなのかを確認しています。

ハンナはそれを並行文の形式で表現しています。これは神さまがふるわれる御力の性質を、ひとつの事柄に対して対になる二つの側面から言い表す形式です。

神さまは、力ある者の力を取り上げることもできるし、力ない者を強くすることもできる。飽き足りるほど豊かな者を一転して飢えさせることもできるし、飢えている人を飽き足らせることもできる。という風にです。

ハンナは子を産んだことでペニナを克服しました。しかし、それは自分の力、人間の力によってではなく、神さまの御力によってなされた業です。ハンナの賛美は、「人間が人間と戦って、力で屈服させるようなやり方では、救いにはならない。今私は救われた。それは神さまが御手を伸べられたからこそ成し遂げられたことなのだ。」という告白であり、それが私たちに救いの本質を教えています。

サムエル記から後、ユダヤの民は富や力を追い求めます。旧約聖書に収められているユダヤの民の歴史は、ユダヤの民が神さまのご支配を離れ、自らの手で力を得ようとする姿を記録しています。折に触れて神さまはこの民をたしなめ、時には厳しく打ち据えてこの民を取り戻そうとなさいます。旧約聖書とは端的に言いますと、この繰り返しです。

ハンナにとっての敵はペニナでした。この当時、イスラエルの敵はペリシテでした。サムエルの誕生はイスラエルがペリシテに打ち勝って強い王国を建てることの予告でしたが、強い王国を築いたことでイスラエルに平和が訪れたでしょうか。

確かにダビデは北イスラエルと南ユダの二つの王国を統一し、強大な王国を築きましたが、晩年には骨肉相食む内紛に苦しめられました。ソロモンはその知恵によって国を富ませましたが、国は腐敗しました。その後の王については、ここでお話する必要も無いほどです。もちろん、ヨシヤのような優れた王も居ましたが、その彼でも既に大きく傾いていたユダヤを立て直すことはできませんでした。ユダヤの人々は闇の中に迷い込んでしまいました。

私たちの救いは、力で自分たちの敵を打ち倒すことによって実現できるようなものではありません。誰かを敵として認識し、その人を打ち倒せば、自由や平等を勝ち取ることができるという考え方は幻想に過ぎません。仮に、敵を打ち倒すことができたとしても、その後には新たな敵が現れる、あるいは他の誰かを敵とみなさなければ立ち行かなくなる。それでは光の無い無間地獄です。人間の力に頼るということは、とても虚しいことなのです。それをハンナの祈りが教えています。歴史もまた、私たちにそれを教えています。

そして、本当の意味で力を帯びた方がおいでになる、油を注がれた方がおいでになることをハンナの祈りは予告しています。その方こそ、イエスさまです。

聖霊によって御子を宿したマリアもまた、ハンナと同じように神さま道からの偉大さを賛美し歌います。イエスさまこそ、神さまの御力を帯びて来られた光の御子です。イエスさまこそ、この世に光を与える神の御子です。

私たちは今、この光の御子をお迎えしようとしています。クリスマスのこの時期を境に、少しずつ日が伸びて行きます。クリスマスは、闇に対して光が打ち勝つことを体感させます。

闇の方が長い時だからこそ、光を大切にしましょう。誰かに対して敵意を向けたり、勝ち誇ったりするではなく、共に救いを待ち望み、光を待ち望む。何より神さまに感謝し褒め称える。そのような気持ちで主のご降誕を迎えましょう。

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