2021年12月24日
ルカによる福音書 2:1-20
神の御子、イエスさまがお生まれになりました。
それは旅の途中のことでした。
ローマ皇帝アウグストゥスは、ユダヤの人口調査を行うように命令しました。ユダヤからローマに収めるべき税の額を確定させるためです。このため、全ユダヤ人は各々自分の属する部族の本拠地へと赴き、登録をしました。日本人の感覚で申しますならば、それぞれ本籍を置いている市区町村の役場に行って、家族構成を報告するような感じです。
この命令を受けて多くの人々が住んでいる場所から本籍地へと旅をしました。ダビデの家系のヨセフも同じように住んでいたナザレの町からダビデの町であるベツレヘムに滞在していました。彼は身重になっている許嫁マリアを伴っていました。彼らは家畜の部屋に寝泊まりしていました。
おそらくヨセフはベツレヘムの町には親しくしている人が居なかったものと思われます。もしも親しくしている人が居たならば、その人の家の居間に泊めてもらうことができたはずなのですが、ヨセフたちには頼れる相手が無かったために、知らない人に頼み込んで家の隅にある家畜の部屋に寝泊まりしていたのでしょう。
あるいは違う理由から家畜の部屋に寝起きしていたのかもしれません。
この当時、多くの人が行き来していたということは、知人を頼って宿を借りる人も多かっただろうことが予想されます。ヨセフたちが頼った家にも、既に多くの旅人が泊まっていたのかもしれません。この当時の家の構造を考えますと、一組に対して一つの部屋をあてがうなどということは余程の金持ちでもなければ不可能ですので、これらの人々は大きな部屋で雑魚寝をすることになります。
多くの人が雑魚寝をするような部屋の中でお産ができるでしょうか。無理があると思います。そこで、他の人と距離を置いて寝起きできる、産気付いても安心して出産できる場所として家畜の部屋が充てられたのだという考え方が出来ます。
よく「イエスさまは馬小屋でお生まれになった」と申しますが、この言葉の持つイメージが誤解を生むことが多くあります。この夫婦が汚くて寂しい場所に追いやられたというような印象を持ちます。
当時、ユダヤでは家畜は大切な財産でしたので、家の中、玄関を入ってすぐの土間の脇に家畜の部屋を作って、そこで飼っていました。この家畜の部屋は必ずしも不潔な場所とは言えません。以前、ある乗馬クラブの厩舎に入ったことがありますが、その厩舎では不潔さを感じさせるような要素、例えば臭いなどは全くありませんでした。そのことを不思議に思って質問しますと、馬が丁寧に扱われている厩舎は乾燥した藁の臭いくらいしかしないのだそうです。マメに掃除をして、敷き藁を交換していれば、悪臭は生じないのだそうです。
もしもその家畜小屋が汚いとすれば、それは人間が汚くしているだけです。それに家畜を汚いと考えるのは、現代の日本人の感覚に過ぎません。遊牧民族などは、屋外では自分の率いている家畜とくっつきあって、互いに暖め合いながら野宿することもありますし、家畜の糞を集めて燃料にしたりもします。
居心地も悪いとは言えません。家畜部屋の土間には干し草が敷かれています。これは汚れるたびに交換しますので、新しいものがいくらでもあります。もしもこれが稲藁であったならば、藁は固いですし、切り口も尖っていてうっかりすると肌を刺しますが、ユダヤに稲はありません。ここで干し草として用いられているのは牧草です。この牧草を干したものはとても柔らかいので、分厚く積んだ干し草に布を掛ければ、暖かくて寝心地が良いベッドが出来上がります。マリアはこの牧草を飼い葉桶に敷き、布にくるまれたイエスさまを寝かせたのです。
イエスさまがお生まれになった場所は、決して裕福な場所ではありませんでしたが、そこには温もりがありました。そこには愛情がありました。
このころ、羊飼いたちが夜通し羊の群れの番をしていました。
御使いが彼らに近付くと、主の栄光が辺りを照らしました。羊飼いたちは暗闇の中に居たのです。
動物を飼う仕事には休みがありません。日曜日だから世話をしなくても良いということにはならないのです。だから羊飼いたちは律法の定める安息日を守ることができません。このことを理由として、羊飼いたちは蔑まれていました。
そんな羊飼いたちに神の御子の誕生が、福音が、誰よりも先に告げ知らされました。全ての人に告げられるべきよき知らせが、蔑まれていた人々に最初に告げ知らされました。
暗闇の中に追いやられていた人々のもとに光が、希望が語られました。
天使は歌います。
「天には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」
御心に適う人とは誰でしょうか。主イエスさまの御名を呼ぶ全ての人が、御心に適う人です。光を求めて祈る全ての人が御心に適う人です。
「さあベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」
ベツレヘムで羊飼いたちが見たのは、世の罪を取り除く神の子羊でした。
羊飼いたちはいつも羊と一緒に居ます。羊は羊飼いたちにとっては日常の生活そのものです。その彼らが出会った御子イエスさまは神の子羊、傷の無い全き犠牲となる方でした。
私たちもベツレヘムへ参りましょう。今の世の中でベツレヘムはどこでしょう。私たちの日常の中にベツレヘムはあります。私たちの日常の中に御子が微笑んでおられます。
私たちがどのような状態に置かれていたとしても、「イエスさま来てください」とお願いすれば、イエスさまは私たちの心に宿を取ってくださいます。私たちは神の御子に相応しい居場所を用意することはできません。しかし、イエスさまが来てくださるならば、そこは良い場所となるのです。光と温かさに満ちた、優しい場所となるのです。
そこに近付く者は皆、この光に照らし出され暖められるのです。相応しくない者など居ないのです。
今宵、一人の男の子が生まれました。
その子が持っていた光は初め、その子の周りに居る人たちの心に点り、人から人へと伝えられ、今では世界中で点っています。
その光は決して強くはありません。
日の光と比べるとはるかに小さく、弱く、昼の道を歩く者は気付くことすらない、それほどに小さな光です。
でも闇の中では確かに明るく、その光を持つ人を照らし、その人の周りを照らし、歩むべき道を指し示す。そして何より、ほのかに暖かいのです。
その光が与えられたことを今夜私たちは喜び、感謝し、祝うのです。