2021年12月5日
エレミヤ書 36:1-10
「御言葉は語られる」
エレミヤ書はイザヤ書、エゼキエル書と並んで三大預言書と呼ばれる書物です。読み始めてみますと、少し戸惑いを覚えます。なぜならば、エレミヤ書の記述は時系列に沿っていないからです。いくつもの断片に分かれており、それらは決して順序立てて並べられてはいないのです。例えば先ほど読まれた36章の内容についての記述が45章にも記されていますが、そこに至るまでの九つの章ではエレミヤが捕らえられたことやエルサレムが陥落したことなどが記されていて、45章で唐突に過去に遡っています。このため、エレミヤ書を読む時には何らかの助けが必要なのではないかと思います。
預言の内容は極めて辛辣で、厳しい言葉の連続です。エレミヤが活躍した時代は、ユダヤ王国末期の頃で、中東地域のパワーバランスが大きく変わろうとしていた時代でした。
ユダヤの土地は大国と大国の狭間にあって、ユダヤ人は常に周囲の国々によって翻弄されていました。ユダヤ自身が強かった時代は、ダビデとソロモンの時代だけであったと言っても過言ではありません。ダビデが統一した南北の王国はソロモンの死後、再び二つに分かれます。そして世代を重ねるにつれて自分たちのアイデンティティである信仰、祖先をエジプトから導き出した主を忘れ、周辺の神々を信仰するようになりました。
これは必然と言えば必然のことではあるのです。この地域の先住民族の信仰には、それなりの合理性があったからです。神々の代表例として私たちが頻繁に目にするのはバアルではないかと思いますが、バアルは農耕の神です。バアルを信仰するということは、定住するために必要な農耕の知識を学ぶということでもあるので、遊牧から農耕へと生活の姿を変えていったユダヤの人々がバアル信仰に傾いて行ったのも不思議ではないのです。
しかし、どのような理由があったとしても、神を忘れ去ることは許されるべきことではありませんでした。神はユダヤの民を取り戻すために、この民を打つことを決意します。そして、その前に警告と神の思いがどこにあるのかを民に知らせるために何人かの預言者を遣わします。その中の一人がエレミヤです。
古代の中東において大国と言えば、それはエジプトのことでした。仮にどこかに新しく力を付け始めた勢力があったとしても、エジプトは影響力をふるって、それらの新興勢力が大きくならないように制御していました。実はバビロニアは一度エジプトに負けています。紀元前605年、ヨシヤ王の時代にエジプトのファラオ・ネコ2世はアッシリアと同盟してメギドでバビロニア軍と衝突し、これを退けています。
この時、エジプト軍がメギドに至るためにはユダヤを通過する必要があったのでネコ2世はヨシヤ王に許可を求めましたが、ヨシヤ王は何故かこれを拒否してエジプト軍に戦いを挑みます。ところが衆寡敵せず、ヨシヤ王は戦死してしまいます。メギドでバビロニア軍を退けたネコ2世は帰る途中、ユダヤの王としてヨヤキムを即位させます。つまり傀儡政権を立てたわけです。
この傀儡政権に対してエジプトは多額の貢ぎ物を要求しました。そこでヨヤキムは国民に重い税を課し、貢ぎ物にかかる費用を捻出していました。それでも国民からの非難が出ていないところを見ますと、国民は納得していたのでしょう。重税と言っても、それが支払える範囲に収まっていれば不満が噴出するということはありません。
バアルを信仰することによってユダヤの人々は豊かになっていました。また、同じ信仰を持つ者たちの間では交流が起きます。通商が盛んになります。物とお金が行き来すれば、富を蓄積できるようにもなります。だから、国の安全を金で買ったとしても充分に元が取れたのです。
ところがバビロニアは決してあきらめていませんでした。一度は負けてしまいましたが、再び力を蓄えてユダヤの周辺に手を伸ばし始めます。バビロニアにはそれが出来るだけの力が既にあったのです。エレミヤはそれを見抜いていました。だから、神さまはエレミヤを通して預言をさせたのです。
バビロニアはエジプトに一度は負けましたが南下を続けていました。ついにエルサレムの人々の耳にアシケロンの町がバビロニアの手に落ちたという知らせが入ります。この町はエルサレムの西南西60キロの場所にある海辺の町です。つまり、エルサレムは徐々にバビロニアの勢力圏に飲み込まれようとしていたのです。
このため、ユダヤの王ヨヤキムは民全体に断食を命じます。民は神殿に詣で、神殿に居る祭司からの預言を求めます。これらの人々が求めていたのは、安心させてくれるような甘い言葉でした。神殿に居る祭司たちとはつまり王に仕える宮廷預言者です。彼らは彼ら自身が安心したいという思いもあったのでしょう。「大丈夫だ、平和だ。」という預言を繰り返します。
それに対してエレミヤの預言は厳しいものでした。これまでにも厳しい預言を繰り返していたために、エレミヤは神殿に入ることを禁じられていました。そこでバルクに命じて預言を巻物に書き写させて、それを神殿で読み上げさせました。
バルクがエレミヤの預言を神殿で読み上げているという知らせを聞いた王の側近たちはバルクを招いて自分たちの前でもそれを読むように命じます。彼らは震え上がると同時に、バルクとエレミヤの身を案じて隠れるように助言します。王の側近の中にも、現実を直視できる者、神の御言葉を真剣に聞き、畏れる者が居たのです。
彼らはバルクから巻物を譲り受けると、ヨヤキムの前で読み上げました。ヨヤキムはどうしたでしょうか。考えを改めたでしょうか。残念ながら、彼の考えはエジプトへの依存とバビロニアへの対抗で固まってしまっていました。彼は既にバビロニアの力が強くなっているということを認めることができなかったのです。そして、エレミヤの預言を疎ましく思ったヨヤキムは預言の巻物を暖炉の火にくべてしまいました。
甘い言葉だけを聞いていたい、耳に痛いことを聞きたくないという心情は私たちにも理解できますが、現実から目を背ければ判断を誤ります。真摯な心から出た忠告に耳を傾けなければ、一体人はどのようにして正しい道を選ぶことができるでしょうか。
忠告する者が人間であったならば、「あぁ、この人は聞かないな」と諦めて、それ以上は何も言ってくれなくなるかもしれません。しかし神さまは私たちをお見捨てにはなりません。バルクは再び預言を書き直します。しかもエレミヤは新たな言葉を付け足しさえしました。
私たちは自分の考えを補強するような情報だけを選んで聞く癖があります。それは誰にでもある癖です。そして自分を省みることは苦手です。自分が嫌っていること、こうはすまいと思っていることをしてしまう愚かさがあります。そこから脱却するためには何が必要でしょうか。厳しいと感じる言葉、耳に痛いと思える言葉を聞くことで、初めて私たちは新しい視点を得ることが出来るのです。視点をより多く得ることで、より深い理解が可能になるのです。
神さまは忍耐強く待ってくださる方です。「立ち直るかもしれない」という希望を決してお捨てになりません。私たちが自ら向きを変えて神さまに立ち返ることを期待される方です。無理矢理に連れ戻すのではなく、教え諭して、私たちがそれを理解するのを待ってくださる方です。
神さまは私たちを決してお見捨てにはなりません。エレミヤの預言においても赦しと救いを新しい契約として約束してくださっています。この契約は御子イエスさまによって実現しました。
紫は、待望の色だと申しました。この色には悔い改めという意味もあります。救いの御子を待つこの時期だからこそ、私たちには悔い改めが求められているのです。
祈りつつ、待降節の日々を歩んで参りましょう。