復活節第2主日礼拝説教

2021年4月11日

マタイによる福音書 28:11-15

「二組の知らせ人」

 一つの事柄について、立場やその事柄に掛ける思いの違いによって捉え方が全く異なるということがあります。私たちは今、その最たる例を目にしています。イエスさまの御復活をどのように捉え、どのように伝えるか、復活のイエスさまと出会った女たちとそうでない祭司長たちとでは、そこから引き出された言葉がまるで異なります。そして、彼女ら、彼らが得たものもまるで異なります。私たちはイエスさまの御復活を直接には見ておりません。私たちは代々の信徒たちが語り伝える言葉を聞いて信じている者です。私たちは何を聞き、何が与えられ、また何を語り伝え、何を受け継ぐのでしょうか。

イエスさまが十字架に掛けられた翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々はローマから派遣されていたユダヤ総督ピラトのもとに集まりました。イエスさまがかつてご自身の死と復活を予告なさっていたということが心に引っ掛かっていたからです。

彼らはイエスさまが復活なさるということを信じていません。しかし、弟子たちが復活を何らかの手段で演出して、人々に言い触らす可能性があると考えていました。しかし、弟子たちが復活を演出するためには、御遺体が墓に収められていると都合が良くないので、事前にイエスさまの御遺体を墓から盗み出して、逆に御遺体が無いという事を復活の証拠として吹聴する可能性があると彼らは考え、ピラトに相談しました。そこでピラトは部下の兵士の中から何人かを派出し、墓の見張りを命じました。

御復活のその時、大きな地震が起こり、主の天使が天から下り、墓穴を封じてあった石を転がし、その上に座りました。その様子を見た見張りの兵士たちは、恐ろしさのあまり硬直してしまいました。

天使は兵士たちと同じようにこの様子を見ていたマグダラのマリアたちに声を掛け、イエスさまが復活なさったことを告げ、弟子たちに知らせるように命じました。彼女らは弟子たちの所へと走ります。すると行く手にイエスさまが立っていて、彼女らに直接声を掛けられました。

この時イエスさまが掛けられた言葉は、新共同訳聖書では「おはよう」となっていますが、口語訳聖書では「平安あれ」と訳されていました。直訳するならば、「汝ら喜べ」となります。マリアたちはイエスさまと出会い、弟子たちに伝えるべきことを教わりましたが、その時かけられた言葉は「喜びなさい」という御言葉から始まりました。

その頃、硬直していた兵士たちは息を吹き返します。彼らはマリアたちが弟子たちに会うよりも早く都に帰り着き、自分たちが見た事を祭司長たちに報告しました。兵士たちの報告は祭司長たちにとって予想外の事でした。復活を信じていなかった彼らは弟子たちが何等かの工作を行う可能性については考えに入れていましたが、まさか本当にイエスさまが復活なさるとは思ってもいなかったのです。祭司長たちは再び集まって、どうすればこの出来事の持つ影響力を小さくできるか話し合いました。

彼らは、イエスさまの御復活その物を弟子たちの演出したウソであるとして扱うことに決めました。また、信ぴょう性を持たせるため、あらかじめ人々に「弟子たちがイエスの遺体を盗み出した」と別のウソを吹聴するというものでした。

ただし、このウソを吹聴するためには兵士たちに口止めをしておく必要がありました。この兵士たちはピラトの部下の中から派出されていたローマの兵士です。彼らはピラトから「弟子たちがイエスの遺体を盗みに来るかもしてないから警備するように」と命じられていました。

もしピラトに「なぜ墓が空になっているのか」と問われたならば、彼らは質問に答えなければなりません。彼らが経験したことをありのままに報告するならば、「地震に続いて姿を現した天使の姿を見て硬直した」と答えるべきなのですが、「弟子たちが遺体を盗んだ」と報告するのであれば、当然のことながら天使を見たなどと言う事は言えません。かと言って、見張っている目の前で御遺体が盗まれたと報告するわけにもいかないので、「居眠りをして、その間に盗まれた」と答えるように、祭司長たちに言い含められます。

祭司長たちの考えたウソを吹聴するということは、自分たちが任務に失敗したと吹聴することと同じです。それも、怠りによってです。ローマ軍団の規律は極めて厳しく、見張りの兵士が居眠りをした場合は、最悪の場合死刑にされるほどの厳格さを持って臨んでいました。

祭司長の指示に従うということは、兵士たちにとってはとても大きな危険を伴うことでした。当然、それは兵士たちにとっては大きな不安です。だからこそ、祭司長たちは極めて多額の金を、それも恐らくはそれまでの経歴や予想されるこれからのキャリアを棒に振っても割に合うくらいの金額を兵士たちに与え、なおかつ身の安全を保障できるような根回しをすることを約束しなければならなかったのです。

結局、兵士たちは金を受け取り、祭司長たちに指示された通り、弟子たちがイエスさまの御遺体を盗み出したと吹聴しました。祭司長たちは自分たちの目論見通りの事を兵士たちにさせることが出来ました。兵士たちは受け取った金できっと大金持ちになったでしょう。でも、彼らの手元に残されたのは果たして満足感だったのでしょうか。彼らは塗り固めたウソの上を歩かなくてはいけなくなってしまいました。そこに平安はあったのでしょうか。

復活されたイエスさまはマリアたちに「喜びなさい」「平安あれ」と声を掛けられました。彼女らはイエスさまの御足を抱き、御前にひれ伏しました。彼女らの心を喜びと平安が満たしました。

一つの出来事を伝えようとする二組の人々に、これほどに違うものが与えられました。兵士たちには不安、マリアたちには平安。その違いは、疑うのか信じるのか、ウソを言うのか真実を伝えるのかの違いによって生じます。

イエスさまの御復活は私たちの信仰にとっては神髄とも言える大切な信仰です。父なる神は御子イエスを死者の中から復活させることによって、私たちにも永遠の命を与えるということを明らかにしてくださいました。だから私たちはイエスさまの御復活に希望を持つのです。その希望が私たちに平安を与えるのです。御復活を通して私たちは、全ての苦しみが退けられ、全てが和解し、喜びに満たされる神さまの御支配を覗き見、そこに迎え入れられることに希望を持つのです。その希望が私たちに平安を与えるのです。

私たちが今、生きているこの地上には理不尽が満ちています。真っ直ぐに生きようと努力する者の心が、かえって踏みにじられるようなことが、当たり前のようにあります。助けを求めている者の声が顧みられず、かえって踏み潰されるような心無いことが、当たり前のようにあります。

踏み潰す人も、決して悪魔ではないのです。そうせざるを得ないような状況に置かれている、追いやられているということがほとんどです。心が無いわけではないのです。心がこんがらがって、自分でも解けないで苦しんで、ジタバタする。その時に振り回す腕や脚が人を傷付けるのです。

そんな時に私たちは、何とかガチガチに絡み付いた糸を、互いの心をほぐそうと努力するのですが、解ける前に傷付いて倒れてしまいそうになる。そして、糸を解くことを諦めなければならなくなる。

そんな時に怒りや悲しみを覚えることがあります。「なぜほどけないのか。なぜ分かってもらえないのか。」

それは自然な感情だと思います。でも、その感情を剥き出しにして相手や周りの人にぶつけることは、負の再生産を繰り返すことになってしまう。かと言って、その感情を無視すると、自分自身の内側に歪みを抱えることになる。

ではどうすれば良いのか。私は、告白が必要だと思います。その時の思い、担いきれない重荷を神さまに告白する。マグダラのマリアたちは墓の前で何をしていたのか。きっと二人で泣いていたのだと思います。

一人で全部を背負い込む必要は無いのです。できることならば、共に歩む誰かに、一時でもその重さを感じて、知ってもらう。マグダラのマリアは、もう一人のマリアと一緒に墓の前に居ました。一緒に居る、居てもらう、それだけでも楽になります。そして、その人と共に祈ることが私たちに平安を与えるのです。

その時すぐにとは言わないけれど、神さまその祈りに応えてくださいます。約束してくださった和解の時への希望を新た与えてくださいます。何度でも、新たにしてくださいます。それは理屈ではありません。信じるということは、理屈を超えるのです。

「信じられないかもしれないけれど、重荷を降ろせる場所があるよ、重荷を一緒に担える人たちが居るよ」と私たちは伝えるのです。

「あなたと同じように道を歩んでいる人たちが居る。その人たちは、ある方に会えることに希望を持って道を歩んでいる。そこに行ってみないか。」と声を掛けるのです。

世の中には疑いや迷いが満ちています。ウソもたくさんあります。そんな中にあっても、私たちは代々の聖徒たちが伝えてくれた希望の中を歩み、また私たちもこの希望を伝え、受け継ぎ、希望の中に私たちの隣人を招くのです。そして、喜びの道、イエスさまに会える道を共に歩むのです。

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