2021年4月18日
マタイによる福音書 12:38-42
「説教よりも、知恵よりも」
主イエスは方々を回って、ある所では人を癒し、またある所では教え、旅をしておられました。その間にも時折イエスさまに議論を吹っ掛ける者たちがいましたが、イエスさまはそれらの人々に適切な答えをお与えになりました。しかし、それでもなおイエスさまを信じず、執拗に質問をする人たちが居ました。それが、律法学者とファリサイ派の人々です。
この二つの人々を指す名前は、ほとんど重なり合っていました。ファリサイ派の人々とは、人が神さまの御心に適う生き方をするためには、律法を良く研究し、そこに記されている通りに生きることが大切だと考えた人々のことです。
これらの人々は民衆の中に分け入って、正しく生きるようにと人々を教えていました。ただ、イエスさまの時代には既に彼らが語る生き方と、その基準となる掟とは「ためにあるもの」と成り果てており、神さまの御心を求めて行うということの本質を見失っていました。
この律法学者とファリサイ派の人々がイエスさまのところに来て言いました。「しるしを見せてください。」
この時、彼らがしるしとして求めたものは、常識を超えた何かでした。今日は列王記が読まれましたが、ここでは預言者エリアが神から遣わされた人であるということを、一人の女性が信じるに至るまでのプロセスが述べられています。死んでしまった彼女の息子を生き返らせるという、常識を超えた出来事によって、彼女はエリアと彼の言葉とを信じました。
それと同じように、常識ではあり得ないような何か特別なことをせよと、ファリサイ派の人々はイエスさまに求めたのです。これに対してイエスさまはお答えになりました。
「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」
ヨナは旧約聖書に登場する人物で、堕落していたニネベに悔い改めを宣べ伝えるようにと遣わされた人物です。彼が神さまから選ばれるにあたって、何か特別な資質があったわけではありません。どちらかと言うと凡庸で、どちらかと言うと不平や不満をすぐに口にする弱い人物でした。
神さまから「ニネベに行ってその住民の罪を批判し、立ち返らせよ」と命じられると、ニネベに行くことを嫌がって反対の方向へ船で逃げようとします。しかし、船が嵐に揉まれ、難破しそうになると、ヨナが神さまの御心に逆らったことに原因がにあると知った船員によって海に投げ込まれてしまいます。
危うく溺死しかけるヨナですが、大きな魚に呑み込まれ、三日三晩を魚の腹の中で過ごすうちに彼は考えを改め、ニネベに行くことを決心します。魚が彼を陸地に吐き出すと、ニネベに直行し、神さまからのメッセージを語りました。
同時に、ヨナをご自身と重ねて語っておられます。
ヨナは普通の人でした。彼自身は特別なことなど何もしませんでした。イエスさまはご自分がなさったことを特別なこととは考えておられなかったのではないでしょうか。諸々の奇蹟もイエスさまにとってはただ、人を愛された、それだけのことなのでしょう。だから折に触れて「あなたにも出来る」と仰った。しかし、イエスさまの愛の業は、私たちにはとても真似できないほど、あまりにもひたむきで限りの無い深い愛によってなされた御業だったのです。
続けてイエスさまはシバの女王を引き合いに出されました。彼女はソロモンが王位を継いだ時にソロモンを試すために訪れた人物です。
ソロモンが王座に就くと、神さまが彼の夢に御姿を現され、「どのようなことでも願えば与える」と言われました。するとソロモンは「聞き分ける心」を求めました。「民を正しく裁き、善悪を知るために聞き分ける心をください。」と願ったのです。
神さまはソロモンの答えを喜ばれ、彼に知恵をお与えになりました。
この知恵を試そうとシバの女王はいくつかの難問を持ってやって来ましたが、ソロモンはそれら全てに適切な答えを出して女王を驚かせ、シバの女王は神を褒め称えました。
知識と知恵は違います。知識は単に情報の蓄積に過ぎませんが、知恵には恵みが、優しさがあります。イエスさまの許を訪れる人々の中には苦しみや悲しみを抱えた人が多くありましたが、イエスさまはそれら全てに恵みと優しさでお答えになりました。「聖書にはこう書いてある」というだけではなく、いつも優しかった。それがイエスさまのお知恵です。
今日のやり取りの中に、時代を超越したイエスさまの視線を読み取ることができます。イエスさまは「神に背いた時代」と仰いましたが、これは特定の時代を指している言葉ではありません。「いつの時代であっても、神さまの御心を知る事の出来ない時代の人々は特別なしるしを欲しがるものだ」と仰っているのです。
「ニネベの人々にとっては不思議な旅をしたヨナがしるしであったが、この聖書を読んでいるあなた、今この福音を聞いているあなた方にとっては、死んで復活した私がしるしだよ。ヨナの教えはニネベを救った。今、私が語る言葉はあなた方全てを救うのだ。」と、私たちに直接に語り掛けておられるのです。イエスさまが見ている世界と、ファリサイ派の人々、律法学者たちが見ている世界は違うのかもしれません。
この時代、ユダヤはローマの属州として自治を認められてはいましたが、完全に独立した国家とは言い難い状態でした。自分たちは搾取されている、不当な支配を受けているという不満がユダヤの人々の心を常に圧し潰していました。彼らは疑わしきものとしてしか世界を見ることが出来なくなってしまっていたのでしょう。
イエスさまは常に神さまと共に歩まれた方です。イエスさまの目に見える世界は、神さまの恵みと愛に満ちていたのでしょう。そして、それに気付くことが出来ない人々を哀れに思っておられたのでしょう。
「あなた方は苦しみのために良い物まで見えなくなっている。信じられなくなってしまっている。それでは神さまの愛には気付けない。私を見てごらん。私の言うことを少しで良いから信じて欲しい。」と、イエスさまは願っておられるのです。
この御心は、単にローマの支配下にあるユダヤの人々にだけではなく、あらゆる時代の人々に、私たちにまで及んでいるのです。
「いつもの生活の中に、恵みは満ちているじゃないか。それでも敢えてしるしが欲しいというのであれば、私がそのしるしだよ。あなたたちは十字架の出来事を知っている。十字架を通して私の父に近付くことができる。私から優しさを感じたならば、私を通して神さま信じて欲しい。今まで私はあなたにとって遠い存在だったかもしれない。シバの女王が旅をしてソロモンを訪ねたように、あなたは旅をして今や私のそばに来ているじゃないか。これからは、私はいつもあなたと共に居る。だから私を通して神さまを信じて欲しい。」
それがイエスさまの願いです。
日常の生活の中には、私たちが思っている以上に喜ぶべきことが満ちています。それは頭で理解するようなことでも無ければ、証拠を必要とするようなものでもありません。あなたがそこにイエスさまの優しさを、神さまの愛を感じたならば、それは100万の説教にまさる大きな力を持ってあなたに信じる心を与えます。それはどんな知恵にも勝って優しいのです。
普通の毎日、普通の出来事の中に、神さまの愛は表されています。それら普通の喜びに満たされる日々を願うものです。