復活節第4主日礼拝説教

2021年4月25日

ヨハネによる福音書 11:17-27

「マルタの告白」

 愛する者、身近な者の死は私たちの心をバラバラに引き裂いてしまいます。この悲しみに私たちはどのように向き合うことが出来るのでしょうか。

エルサレムの東、おおよそ3キロ弱のところにベタニアという町があります。この町は普段はそれほど賑やかな町ではありませんが、過越し祭の時などにはエルサレムを訪れる人々のうち、エルサレムの城内で宿を取る事が出来なかった人たちが宿を求めて来る町です。

ここにマルタ、マリア、ラザロの三兄弟が住んでいました。ルカによる福音書には、イエスさまがこの兄弟の家を訪れたことが記されていますので、ある程度親しい間柄だったということが分かります。しかし、ラザロが病気になってしまい、マルタとマリアの姉妹はイエスさまの許に人を遣わして、その事を伝えました。福音書記者ヨハネは明確には記しておりませんが、彼女らはイエスさまがラザロを癒してくださることを期待していたのでしょう。

イエスさまはこの知らせを受けてもすぐにはベタニアに出発なさいませんでした。イエスさまが出立なさったのは、知らせを受けてから二日の後でした。そして、イエスさまがベタニアに着いた時には、既にラザロは死んでおり、墓に葬られてから四日が経っておりました。

当時の習慣では、葬儀は故人の死後速やかに執り行われ、7日間に渡って営まれました。そのうちの3日間は遺族らが泣くための期間として定められており、周囲の人々は遺族らをそっとしておかなければなりませんでした。

4日目からは弔問客が訪れ、悲しみの内にある喪主や遺族、故人の友人らに対して同情の意を表し、慰めの言葉をかけました。これはユダヤの人々にとっては為すべき大切なこととして理解されており、おそらくラザロの葬儀に際しても大勢の人がこの家を訪れたことでしょう。

イエスさまがベタニアに到着なさったのは、ラザロが葬られてから4日が過ぎた頃でしたので、ちょうど大勢の弔問客が訪れている時でした。

マルタはイエスさまが町に到着なさったと聞くと、出迎えるため町の入り口に出掛けて行きました。一方、マリアは家に残って座っていました。

受け容れることの容易ではない程の大きな悲しみに直面した時、それへの反応の仕方は人によって異なります。テキパキと立ち働くことで自分を支える者もあれば、ただただ悲嘆に暮れる、そういう人もあります。これはどちらが正しいとか、どちらがより悲しんでいるとか、悲しみの中にあってもしっかりしているとかということではありません。これらの人は、そうせざるを得ないのです。強いて言うならば、これらの人々は皆で悲しみと向き合って、乗り越えるために、無意識のうちに自分の役割を定め、これを果たしているのです。

マルタは自分を立ち働く役割に置きました。イエスさまを出迎えるために出掛けて行きましたが、イエスさまのお顔を見た時に感情が吹き出してしまいました。

「主よ、もしここに居てくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」

これは決して恨み言を言っているわけではありません。わたしたちはラザロの病気の知らせをイエスさまが受けた後、二日経ってやっと出発なさったということが頭の片隅にあるために、この言葉を「もっと早く来てくれていたら助かったでしょうに、なぜ知らせを受けてすぐに出発してくださらなかったのですか」という意味で解釈したくなります。が、そうではありません。イエスさまが到着なさったのはラザロの死後4日が経っています。仮にイエスさまが知らせを受けてすぐに出発なさったとしても間に合いませんでした。

では、この言葉の意味は何でしょうか。

半分は八つ当たりでしょう。「一番居て欲しい時に居てくださらなかった。」とイエスさまに八つ当たりしたかったのです。イエスさまはマルタにとって甘えることの出来る方だったのです。つまり、マルタはイエスさまであればグチャグチャになった自分の気持ちを受け止めて下さると信じていたことが読み取れます。そしてイエスさまは事実、マルタのそんな気持ちをも受け止める方でした。

もう半分は、自責の念です。マルタは自分を責めていたのかもしれません。「もし、もっと早くイエスさまに知らせて来ていただいていれば、ラザロは死なずに済んだのかもしれない。」という後悔があったのかもしれません。

大切な人が亡くなった時、同じようなことが私たちを苦しめます。「あの時、もっと早く声を掛けていれば助かったのかもしれない。無理にでも医者に連れて行けば良かった。あの時もたもたしていたから助かるものも助からなくなってしまった。もっと腕の良い医者に見せていれば、結果は違ったのではないか。」

これらは全て八つ当たりです。人間は、悲しい出来事を受け容れることが出来ない時、誰かを責めたくなるのです。とりわけ自分を責めてしまうのです。それは悪いことではありません。これは全て、悲しみと苦しみを整理するためには必要なプロセスだからです。

マルタがイエスさまに八つ当たりしたということは、実は一番正しいやり方なのです。苦しみも悲しみも、全ての感情をイエスさまに聴いていただく。それはつまり苦しみの告白です。

全てを吐き出した後、少しずつマルタは落ち着きを取り戻しました。

「無理なことを申しました。申し訳ありません。あなたが神さまに願われることは何でも、神さまは叶えて下さると、今でも信じています。」

イエスさまは無力な方ではないと信じています、八つ当たりをしたけど今でも信じていますと、マルタは言いました。

そのマルタにイエスさまはお答えになりました。マルタが落ち着きを取り戻すまで、イエスさまは黙って、マルタの言葉を聴いておられたのです。イエスさまは仰います。

「あなたの兄弟は復活する。」

当時、ユダヤ教の中には大きく分けて4つのグループがありましたが、そのうちのファリサイ派には復活信仰がありましたが、サドカイ派は死者の復活を認めていませんでした。サドカイ派は神殿を活動の場としており、このグループに属する人は王族や貴族などの富裕層であるのに対し、ファリサイ派は庶民の間で活動していたことから、一般市民の多くはファリサイ派の影響を受けていました。

マルタは「復活することは信じている」と答えていますから、彼女がファリサイ派的な信仰理解を持っているということが分かります。

マルタは、イエスさまの言葉を、将来の復活を語ることで慰めようとしていると理解したのです。しかし、イエスさまの仰ったのは、今、ただちにラザロが生き返る、そのためにイエスさまはベタニアに来られたのだという意味でした。

まだマルタはそのことを知りません。

イエスさまは重ねて言われます。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

イエスさまはご自分が死んだ後に復活なさることをここで仰っています。死に打ち勝って永遠の命を私たちに与えてくださるということを、ここで既に暗示なさっています。もちろん、マルタはまだそのことを知りません。

ここで語られている命とは何でしょうか。福音書記者ヨハネは3章でも永遠の命について言及しています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

これを肉体的な生命と考えることは難しいと思います。もしもそうであるとするならば、信仰によって寿命が長くなったり、不死になったりしなければいけませんが、そのようなことが出来た人は一人も居ません。

私は、イエスさまがここで語られる命とは、希望と愛のことではないかと考えます。

イエスさまを信じる者には、どのような逆境の中にあっても希望が傍にある。そして、地上での道のりを歩み終えて天に召された後にも、地上に残された人々に、とりわけ愛する人々に希望を、愛を語り続けることが出来る。それを教えたかったのではないでしょうか。

今までに多くのご葬儀にお仕えすることがありました。キリスト者にとっての葬儀とは何でしょうか。

仏教の葬儀は死者のためにあります。葬儀で読まれるお経は死者への説教です。憂いを残さず、冥土に旅立つことを、死者に説いているわけです。

これに対して私たちの営む葬儀は、礼拝です。そこでは聖書から神さまの御言葉が語られます。主日の礼拝とは違い、亡くなった方の生涯を通して聖書によって表された神さまの御業が語られます。私たちにとっての葬儀とは、その方の生涯の全てに渡って神さまがその方と共に歩まれたということ、神さまと共にその方は道を歩み通されたということを、そこに集う皆で確認し、神さまの栄光を見るのです。そして、そのプロセスの中で語られる神の御言葉が、遺された人々のバラバラになった心を再びつなぎ合わせ、欠けている部分を埋め、痛みを和らげ、慰めを与えるのです。

もちろん、それで全てが解決するわけではありません。葬儀はそのプロセスの始まりであって、長い時間を掛けて割れてしまった心は元の姿に近い形へと戻って行くのです。記念会はそれを確かめ合う機会と言えるでしょう。

昨今の風潮として、簡素な葬儀が好まれるようです。コロナの時代に入ってからは特にそうです。しかし、これが行き過ぎると私たちは喪失を埋める機会を失ってしまいます。

私たちが生きた姿を愛する人たちに確かめてもらうことが、その人たちに神さまの愛を伝えることになるのです。私たちが神さまから頂いた愛を、恵みを、揺るがぬ希望を受け継ぐことができるのです。私たちの信仰が、私たちの愛する人たちの中で命となるのです。だから、イエスさまを信じる者は死んでも生きるのです。

今、マルタは愛する家族を喪って悲嘆に暮れています。喪失を受け容れることができるようになるためには時間が必要で、その長さは人によって異なります。悲しみをイエスさまに告白し、吐き出したマルタは、新たな道を歩み始めました。命の道を歩み始めました。

マルタの姿を通して、苦しみを告白することの大切さを知った今、主イエスがマルタに掛けられた言葉によって、私たちは信仰が、命が受け継がれることを知った今、私たちのすべきことは、今度は私たちがマルタのように、苦しみを聴いて下さる方が居られるということ、信仰によって絶望が希望に創り変えられ、死が命へと創り変えられること、しかもそれを受け継ぐことが出来るという事を私たちの愛する人に、伝えることです。

私たちの命は、その始まりから終わりまで、神さまの御手の内にあるのです。

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