復活節第1主日礼拝説教 復活日

2021年4月4日

ヨハネによる福音書 20:1-18

「誰を捜しているのか」

 ついに御復活の朝がやってまいりました。とても嬉しい日です。もしかするとクリスマスと同じか、それ以上に嬉しいのが御復活の日、イースターです。ただ、白状してしまうと、私の場合は少し喜びが不純なのかもしれません。レントが明けると甘いものを食べられるようになるということが、私を喜ばせているだけなのかもしれないからです。

私はレント、受難節の間、間食を断ちます。本当は甘いものが大好きで、良くカリントウ等を買って食べるのですが、レントの間は甘いものを始めとした間食、つまり口を喜ばせるものを避けます。それは、十字架への道のりを歩まれる主イエスの御苦しみを、何万分の一かでも同じように味わいたいと願うからです。

もちろん、この程度のことではとても御苦しみを知る事など出来はしません。カトリックの信者のように本格的な食事制限や、あるいはオーソドクス教会の信者を真似て動物性の物を避けるかでもすれば、少しは近付けるのかもしれませんが、私は自分に甘いので到底そこまでは出来ません。

では、一体何のために間食を断つのか。それは自分の弱さを知るためなのでしょう。自分の弱さや小ささを知ることで、主の御力と愛の大きさを知る。断ち物をするということには、そのような意味があるのだろうと思います。

さて、私たちは今、御復活の喜びに満ちていますが、ただただ途方に暮れている女性が居ます。マグダラのマリアです。

週の始めの日、今風に言うと日曜日の朝早く、それもまだ日が昇っておらず暗い時間に、マリアは道を歩いています。当時の道は街灯のある現代の道とは違います。足元に若干の不安を覚えながら、マリアはイエスさまの御遺体が納められている墓を目指して歩いています。

マリアは心からイエスさまを愛していました。彼女がどういう人物であったか、四つの福音書のうちルカだけがイエスさまに悪霊を、それも七つの悪霊を追い出してもらったと記しています。彼女は散々な苦しみから解放してくれたイエスさまのことを誰よりも愛していました。

イエスさまが十字架の上で死なれたことによって、彼女の心には大きな穴が空いてしまいました。何をすればその穴を埋めることができるのでしょうか。今の彼女には何も思い付きません。だからせめてイエスさまの傍に居たいと願いに突き動かされて、太陽が昇るのも待たず、彼女は墓へとやって来ました。

ところが彼女は墓を塞いでいるはずの石がどけられているのを見ました。彼女はパニックに陥りました。実際にはマリアは墓の中を見ていません。しかし、動顛した彼女はどけられた石を見て何者かがイエスさまの御遺体を持ち去ったのだと思い込みました。

誰がそんなことをしたのか分かりません。何のためにそんなことをしたのかも分かりません。ハッキリしているのは、イエスさまの死による喪失感によってどん底に居たはずのマリアは、イエスさまの御遺体が盗まれたと思い込んだことによって更なる喪失を予感し、そのことに恐怖したということです。これによって彼女は心のバランスを保つことが出来なくなってしまいました。

これに近いことを経験したことがあります。昔、私はある女性と交際していました。順調に付き合っている時、私は彼女にカメラを貸して欲しいと頼まれまたので、デジタル一眼レフを貸しました。それは当時ですら15年落ちくらいの古いカメラでした。これは私の友人が「もう使わないけど、良ければ使わないか」とくれたものだったので、古いカメラではありましたが、私にとっては友人との絆を感じさせる、お気に入りのカメラでした。

しばらく貸していたのですが、彼女が私に別れ話をした時に、彼女が「欲しい」と言うので餞別代わりにあげてしまいました。

それから1年ほどして彼女から連絡がありまして、カメラを返したいと言うのです。私にとってはショックでした。既に一度「あなたは要らない」と言われたのに、1年してからもう一度「あなたは要らない」と言われたような気がして、別れ話をされた時よりも強い痛みを覚えました。

その程度のことでさえ、もうこれ以上は無いはずだった喪失を上回る喪失は人を苦しめるのです。ですからマリアが二度目の、しかもあり得ないはずの喪失を予感して恐慌状態に陥ったとしても不思議ではありません。

何をどうして良いのか分からず、とにかく助けを求めてマリアはシモン・ペトロともう一人の弟子のところへ行き、彼らに助けを求めて言いました。「主が墓から奪い去られました。どこに置かれているのか分かりません。」

開かれた墓穴を見た時には、イエスさまの御遺体が盗まれたということは予感でしかなかったはずなのに、ここではもう事実として話しています。このあたりからも、彼女の取り乱した様子を読み取れます。

これを聞いたシモン・ペトロともう一人の弟子は即座に走り始めました。何はともあれ確認しなければならないと考えたのでしょう。彼らの反応は典型的な男性の反応です。

女性の皆さんにお伺いしたい。あなたがパニックになるほどのショックに苛まれている時に、例えばあなたの夫であったり恋人であるような身近な人、この場合は職場の上司の方がマリアとペトロ関係に近いかもしれませんが、そのような人がパニック状態のあなたを放っておいて走ってどこかに行ってしまったら、どう思われますか。彼が帰って来た時に何と言いますか。「何で私を放って行っちゃったの?」と聞きませんか。

彼らは確かに弟子たちの中では中心的な人物だったのでしょうが、苦しむマリアに寄り添えていません。どっちが先に墓に着いたなどということは、何の意味も持ちません。墓穴に入った彼らはイエスさまの御復活を感じ、信じたのかもしれませんが、苦しむマリアに寄り添えなかった、この点が彼らの限界です。その上、彼らは墓穴から出ると家に帰ってしまいました。

一方、マリアは一人で泣きながら、再び墓までまいりました。二人の弟子たちはマリアをほったらかしにして帰ってしまったのです。ただ一人取り残されたマリアは墓穴をのぞき込みます。すると二人の天使がイエスさまの御遺体を安置してあった場所に座っています。

この天使は「なぜ泣いているのか。」と質問します。初めてマリアに寄り添う者が現れました。話しかけられたマリアは、弟子たちにしたのと同じ説明をします。それから後ろを振り向くと、イエスさまが立っておられるのを見ました。でも、それがイエスさまだとは分かりません。悲しみに暮れているからです。涙が止まらなくて、まともに見えないからです。

イエスさまは仰いました。

「なぜ泣いているの。誰を捜しているの。」

マリアは答えます。「もしあなたがあの方を運び去ったのなら、どこに置いたのか言って下さい。」

マリアは自分に声を掛けたのは墓守だと思っています。ここで注目したいのは、墓守だと思っている相手への呼び掛けです。ギリシャ語の原典を見ますとマリアは「主よ」と呼び掛けているのです。それは単にへりくだったのかもしれません。もしもこの人がイエスさまの居場所を知っているのであれば、とにかく返してもらいたいからへりくだってお願いをしたのかもしれません。ただ、私は思うのです。もしかすると無意識のうちに彼女は墓守にではなく、イエスさまに救いを求めたのではないでしょうか。「イエスさま、どうか御姿をお見せください。」と。その時イエスさまは思われたのではないでしょうか。

「あなたが今話しかけている相手こそ私だよ。あなたが求めているのは私だよ。」

そしてイエスさまは御自ら彼女の名前を呼ばれます。
「マリア」

その瞬間、彼女は全てを理解し、御復活のイエスさまと出会いました。

私たちは死んだ者と生きている者との間には断絶があるものだと思っています。ご葬儀に出ると、そのことを思わされることが度々あります。特に葬儀屋さんは棺の蓋を閉める時や棺を炉に収める時などに「永遠の別れでございます」というようなことを言います。

しかし、私は死を永遠の別れだとは感じていません。もちろん、それから後は顔を見て話したりすること等はできませんが、それでも断絶があるとは思えないのです。

2018年に私の実父が亡くなりました。父とは絶縁状態にありました。母も、姉も私も、父には散々迷惑を掛けられていたからです。大人になってから考えますと、父には人格障害があったのではないかと思います。その父が亡くなった状態で発見されたと警察から連絡を受けて、私は北海道まで迎えにまいりました。

警察署で遺体を確認し、一人で葬儀を執行し、父の住んでいたアパートの片付けをいたしました。限られた時間で遺品を整理しなければならないのですが、例えばノートや日記などを見付けると、どうしても何が書かれているのかを読みたくなり、本当にチラっとではありますが目を通してみます。すると、父が考えていたこと、どんな暮らしをし、何に苦しみ、何を楽しみにしていたのかと言う事を断片的にではありますが知る事が出来ます。片付けをしながら、亡くなった父との対話をしておりました。

その時、もう赦しても良いと思えたのです。

死んだ人とも和解が出来るのです。死んだ人とも、新たに出会うことが出来るのです。私と父の時には遺品の整理が出会いの場でした。他の人の場合は、もしかするとそれは葬儀の時かもしれない。あるいは納骨の時かもしれない。はたまたお墓参りや記念会の時かもしれない。

マリアは死んだイエスさまに会いたくて墓に行きました。そこには死んだイエスさまは居なかったのでマリアは取り乱しました。死んだイエスさまを捜して墓穴を覗きましたが、マリアが出会ったのは復活のイエスさまでした。死に打ち勝ったイエスさまでした。彼女はイエスさまと対話をすることができました。

マリアがイエスさまの御姿を見る切っ掛けになったのは、天使の一言でした。「なぜ泣いているの?」

泣いている人の気持ちを理解したい。その気持ちが彼女にイエスさまを見付けさせたのです。天使とは神の霊、聖霊です。今、この地上にあって聖霊の働きをなすのは誰でしょう。教会です。泣いている人を目の前にして、私たちは自分に何が出来るのか分からず、自信を持てず、つい遠巻きに見ることしかできなくなってしまうかもしれません。でも、その人の気持ちを理解したい、涙に寄り添いたいと思って声を掛ける時、そこに神さまの霊が働いて、その人をイエスさまに引き合わせるのです。

その時、イエスさまがその人に問い掛けてくださいます。

「誰を捜しているの?」

その問いの裏には、「あなたが捜しているのは私だよ」という主イエスの御心があります。

生きていると悲しみや苦しみは避けられません。泣いている人を見付けた時、誰かを求めて、救いを求めて彷徨う人を見付けた時、私たちはまず問い掛けるのです。「なぜ泣いているの?」

私たちが祈る時、その人と共に祈る時、イエスさまが答えてくださいます。

「あなたが捜しているのは私だよ。」

きっと、その人は答えるでしょう。「私は主を見ました。」と。

今日、私たちは復活の主イエスに出会いました。その喜びを胸に、毎日の生活が始まります。

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