2021年5月16日
ルカによる福音書 24:44-53
「イエスさまからのバトン」
来週、私たちは聖霊降臨日、ペンテコステを迎えるわけですが、では御復活からペンテコステまでの間の期間、つまり復活節と呼ばれる今はどのような時なのかと申しますと、復活されたイエスさまが親しく直接に弟子たちにお話し下さった時間、例えばマグダラのマリアを始めとした女性たち、あるいはエマオへの道を歩く二人の弟子たち、そしてエルサレムの民家に引き籠っていた弟子たちに御姿を現され、語り掛けられた、その時を私たちも体験しているわけです。
この時、イエスさまはご自分が幻などではなく、私たちが望めば触れることも出来る肉体を持って御姿を現されたのだということを示すために、両方の手足をお見せ下さいました。そこには釘を打たれた傷跡があります。さらに、焼いた魚を召し上がり、生きておられるということをも示されました。
そして、一緒に居た頃に語って聞かせて下さった御言葉の中でも、とりわけ御受難と御復活に関する事柄が、実は聖書全体を通して既に示されていたこと、つまり神さまの御計画の成就であったことを説かれました。
イエスさまはファリサイ派やサドカイ派の人々と激しい論争をなさいましたから、あたかも旧約聖書を否定されたかのように理解されることがありますが、決して旧約聖書を、つまり律法に対して否定的な立場に居られたわけではありません。むしろ「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」と仰るほどに律法を支持しておられます。
イエスさまが否定なさったのは、聖書その物には書かれていない、人間が創り出し、守ることを強制されることによってかえって神さまの御心を見えなくしてしまっている掟の事でした。
聖書に書かれている律法は、人間に正しい生き方を教えています。つまり、神さまの御心を常に求め、それに沿って生きる事が人間の幸せにつながるのだと説いています。しかし、人間はその愚かさ、弱さの故に、神さまの御心を求めることが出来ませんでした。旧約聖書において描かれている神さまと人間との関係とは、常に恵みと堕落、そして赦しの連続でした。
いつまで経っても苦しみから自由になれない人間を哀れに思われた神さまは、ついにご自身の独り子を遣わし、人間の罪を全て担わせて十字架に登らせることによって赦しを与えるという、大きな大きな愛を示してくださいました。
主の十字架の出来事は弟子たちにとっては衝撃的な出来事でした。弟子たちは「この方について行きさえすれば、私たちは苦しみから解き放たれる」と信じていました。イエスさまは様々なところで苦しむ人を助け、議論を吹っ掛ける人達を説き伏せ、弟子たちの期待は実現すると思われました。人々の歓呼の中をエルサレムに入城された時など、弟子たちは得意の絶頂にあったことでしょう。
しかし、ほんの数日の間にイエスさまは人々から見放され、罪人として捉えられ、悲惨な姿をゴルゴタでさらされました。弟子たちは打ちのめされてしまいました。その弟子たちに、十字架の出来事はイエスさまの敗北ではない、全て神さまの御心のうちにあったことなのだということを弟子たちに説かれたのです。
人間は物事が順調である時には、今の自分の姿以外をあまり見ません。自分の手の力に満足するからです。このような時に心を開かせる、つまり謙虚な心を持つということは難しいものです。イエスさまはこれまでにも御受難について、また御復活について繰り返し弟子たちに教えてこられました。ルカにおいては3回に渡って受難の予告がなされていますが、弟子たちはイエスさまが何を言っておられるのか理解できませんでした。
絶望の淵にある今、やっと弟子たちはイエスさまの御言葉を理解する準備ができました。心が痛みに満たされて初めて弟子たちの心が開かれたのです。
この数日の出来事を振り返るということは、弟子たちにとっては苦しみをもう一度体験するかのようで、辛い作業だったと思います。記憶をたどる心の足がすくんで、前に進めなくなってしまうようなこともあったでしょう。その度にイエスさまは、その痛みを包み込み、癒して下さいます。
「あの時はそうするしか無かったんだよね。だって怖かったんだもの。良いんだよ。今はこうして私と一緒に居るじゃないか。だから良いんだ。」と声を掛けて下さいます。そうやって、イエスさまは弟子たちの歩みを一歩一歩、一緒に振り返りつつ、今に至る道をたどって下さいます。
その道を歩み終えた時、弟子たちはイエスさまが今だけではなく、いつも共に居て下さったという事実、苦しかった過去にもずっと一緒に居て下さっていたということに気付きます。自分たちが見捨てて逃げてしまったはずのイエスさまが、振り返って見ようとも思わなかったイエスさまが実は一緒に居て下さったということに気付きます。そして今、そんな自分たちを受け容れ、赦して下さっているということに気付きます。この赦しが、赦されているという感動が、弟子たちを立ち返らせました。
今の今まで、弟子たちは弱い者でした。復活のイエスさまと出会った今はどうでしょう。今でも弱い者です。ただ、今の彼らは知っています。自分たちは弱い。でもイエスさまが強い。そのイエスさまが一緒に居て下さる。だから大丈夫だ。何があっても大丈夫だ。
弟子たちに勇気が備えられました。そして弟子たちにバトンが渡されようとしています。それは宣教の御業というバトンです。宣教の旅への出発までには、今少しの準備が必要です。聖霊が注がれることが必要です。聖霊とは人に働く神さまの御力です。つまり自分の思いではなく、神さまの御心を行うことを願う心、神さまに自分を差し出す思い、献身への思いが必要なのです。
「献身」という言葉は牧師になることだけを意味しているわけではありません。誰かに優しくしたいと思うこと、それが献身であろうと思います。
人に優しくするというのは、簡単なようでいて難しい、難しいようにも思えるけど実は簡単という、ちょっと単純ではないところがあると思います。戸惑うことがあります。
これから弟子たちには、それまでとは違う苦難が待っています。時に戸惑いますし、時には恐怖に打ち勝たなければならないようなこともあります。こういう苦難に立ち向かう弟子たちは、相変わらず弱いままでしたが、彼らは恐れつつも宣教の旅を続けます。強いイエスさまが一緒に居て下さっていると言う事、祝福の内を歩んでいると言う事を知っているからです。そのバトンを今では私たちの教会が受け継いでいます。
私たちの周りを見渡すと、何かしらで苦しんでいる人が少なからず居ます。私たちが苦しんでいる時、イエスさまは私たちに寄り添い、私たちの心を開き、赦しと救いによって私たちを神さまに立ち返らせて下さいました。同じように、私たちも苦しんでいる人を見たならば、その人に寄り添い、傷付いて痛む心に優しさをもって触れ、それによってイエスさまの御姿を示すのです。
かつて私たちにイエスさまがどのように関わって下さったのかということを思い起こしつつ日々の生活へと臨みましょう。