2021年5月2日
ヨハネによる福音書 14:1-11
「イエスを通って」
今日、主は地上でなさった説教の一部を私たちに語り聞かせてくださいました。この説教全体はヨハネ13章から16章にまで至る大説教で、エルサレムへの入城後、過ぎ越しの祭りの前になされたイエス様の最後の説教でもあることから、訣別説教とも呼ばれています。
過ぎ越しの祭り前夜、主は弟子達と食卓を囲まれました。いわゆる「最後の晩餐」です。この食事の最中、主は席から立ち上がり、弟子達の足を洗われました。そして、弟子の1人がご自身を裏切ろうをしていることを予告し、それが誰であるかを、ぶどう酒に浸したパンをその者に与えるというやり方で示されました。その後、ペトロが離反することも予告なさいました。
ユダが出て行った後、これからご自分がどこかに行っておしまいになるということを、何回か仄めかされるわけです。福音書を読んでいる私たちは、これが御受難のことを言っておいでなのだとすぐに理解できるわけですが、当事者である弟子達はそれを理解できていません。そんな弟子達に主は「心を騒がせるな」と仰るのです。
この言葉を、単に落ち着きなさいと仰っていると受け取ると、理解が少しく貧しいものになってしまうと思います。
「騒がせる」とは、例えば嵐や波のような外力によって翻弄されるさまを想像された方が、より深くこの箇所を理解できるように思います。
これから何が起ころうとしているのか分かっていない弟子達が、主の惨い死を目の当たりにしたならば、必ず彼らは狼狽し、絶望してしまうでしょう。連座させられてしまうかもしれないという恐怖によって、表を歩けなくなってしまうかもしれません。
それまで彼らの周囲で彼らを歓迎していた人たちが、手のひらを返すように彼らを追い立てるようになるでしょう。そのせいで人を信じることができなくなってしまうかもしれない。弟子達は様々な力よって押し潰されそうになるでしょう。
彼らは、彼らの内面を黒く塗りつぶすような絶望の力によってだけではなく、彼らに追い迫る外的な力によっても翻弄されます。しかし、そのような外力に屈服してはならないと仰っておいでなのです。そして主は仰います。何よりもまず神を信じなさい。そして私をも信じなさい、と。
続く第2節ですが、ここには困ってしまいました。主は「もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」と仰っています。あたかも過去にそう仰ったかのように記されていますが、ヨハネによる福音書を読み返してみましたが、見付けることは出来ませんでした。主はそうは仰っていないのです。
新しく出た教会共同訳と口語訳では違う訳をしています。
「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。」
私はこちらの方が適切であろうと思います。
主は弟子達のために場所を用意されることを約束されたのです。「あなたたちは、この世の中で居場所を失ってしまうことになるだろう。しかし、父の家にはあなたたちの居場所が確かにあるのだ。私が先に行って、あなたたちの居場所を作っておくのだから、あなたたちの居場所は必ずある。そしてそこでは私もあなたたちと一緒に居るのだ。」そう仰っておいでなのです。
主は続けて言われます。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と。主は「父の家」に行かれると仰っておいでなのですが、トマスにはそれがどういう意味なのか分かりません。また、父の家に至る道をあなたがたは知っていると仰るのですが、これもトマスには分かりません。だから「どうして、その道を知ることができるでしょうか」と聞くのです。
イエス様はトマスに「あなたがたはすでに知っている」と言い、トマスは「分からない」と言う。トマスが分からないのは当たり前だと思います。もう少し分かりやすく、直接的に「これだ」と教えてくださったならば、トマスもすぐに理解したでしょうが、イエス様は決してハッキリとは教えられません。ただ、「私を見なさい、そうすれば分かる。」「わたしが道なのだ。」と、比喩によってしか教えてくださらないからです。大変分かりづらい。私ならどう言うだろうかと考えてみましたが、しかし、それでもやはり、「主こそが道なのです。」と、そうとしか言えないのです。
主はこれまでの歩みの中で何を示してこられたのでしょうか。主は何を弟子達に見せてこられたのでしょうか。それを一言で言うならば愛を行うということです。律法によって定められた儀式や宗教儀礼、慣習を踏むことによってではなく、疎外されている者に手を差し伸べ、病に苦しむ者を癒し、飢えている者にパンを与えることで、主は愛を行うという道を示してこられたのです。ご自身を道であると言うことで、その道を私たちにも踏め、この生き方を土台として歩めと仰っているのです。
トマスに続いてフィリポは「私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言いました。これには何と答えましょう。イエス様はこうお答えになりました。「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしがわからないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。」
私はこれをこう言い換えましょう。「主はわたしたちに新しい掟をお与えになりました。その掟をまもるなら、それによって私たちは神を知ることができるのです。」
この掟は新しい掟ではありません。イエスさまがご自身の考えとして述べられたことではなく、神さまの御心として語られ、その通りなさったことです。この掟は私たちも繰り返し聞いてきた掟ですが、私たちに与えられたあらゆる教えが、ここに立っているものなのです。
その掟とは、互いに愛し合うこと、主が私たちを愛してくださったように、わたしたちが互いに愛し合うならば、私たちは神を知るのです。そしてそこに真理があるのです。ヨハネは手紙の中でもこう書き記しています。「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。」
イエス様は常に神の愛を行う方でした。神の愛を実現する方でした。ヨハネの論法を借りるならば、神の内にいつもいる方でした。
私たちは主が求められるように、愛を行うことができるでしょうか。
人が愛を行うのは、自らの力によってでしょうか。自分の力でそれが出来るとは、私には到底思えません。
主はご自身がなさった数々の御業すら、ご自身の御意志、御力によってではなく、父なる神の御心が、御力がそれをなさせたのだと仰います。それだけではなく、私たちが主を信じるのであれば、私たちも主がなさったようにできるのだ。いえ、それどころか主がなさったことよりも大きな業すらできるのだと仰います。
にわかには信じがたいことです。自分にそんな力があるとは思えないからです。しかし、その力の源は私たちのうちにあるのではなく、主が与えてくださるのです。私たちが望むならば、私たちは主の御力によっていくらでも愛を行うことができるのです。主イエスに願うならば、主は叶えてくださるのです。
こんな祈りがあります。
主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
憎しみのある所に、愛を置かせてください。
侮辱のある所に、許しを置かせてください。
分裂のある所に、和合を置かせてください。
誤りのある所に、真実を置かせてください。
疑いのある所に、信頼を置かせてください。
絶望のある所に、希望を置かせてください。
闇のある所に、あなたの光を置かせてください。
悲しみのある所に、喜びを置かせてください。
主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、
愛されるよりも愛することを求めさせてください。
なぜならば、与えることで人は受け取り、消えることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。
これはフランシスコの平和の祈りと呼ばれている祈祷文です。残念ながら聖フランシスコ自身の作ではないそうですが、しかしこの祈りが私たちの心を打つものであることは間違いありません。私たちはこの祈りの中に真理を見出だします。その真理が私たちにアーメンと言わせるのです。この祈祷文は、愛を行うということがどういうことであるかを私たちに教えるのです。
自分の道を歩むのではなく、イエスさまが示される道を歩みたい。
イエスさまがなさったように愛を行いたい。
愛を行えるようにと願って祈りましょう。
ヨハネによる福音書は理屈っぽくて、少し分かりづらいところがあります。しかし、神さまがヨハネを通して語ろうとしていることは、そう難しいことではありません。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」また「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであることを信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と記されている通りです。
肉の欲が、目の欲が、生活の奢りが、世の力が私たちを翻弄するでしょう。あるいは苦難が、不安が私たちを翻弄するでしょう。しかし、心を騒がしてはいけないのです。この世の物はしょせん永遠ではありません。この世の苦しみは永遠に続くわけではありません。それに対して、神は永遠で、神さまの愛も永遠なのです。神さまは、そしてイエスさまはずっとずっと私たちと共に居てくださるのです。
愛を行いましょう。それが私たちの通るべき道なのです。
主イエスはわたしたちの居るべき場所を父の家の内に設けてくださいました。そして、その約束された居場所へと至る道をも示してくださいました。その道は愛です。主イエスの愛によって示された、愛の道を私たちは歩むのです。主イエスを通って私たちは歩み、来るべき日に、私たちは愛の内に迎えられ、決して滅びることのない、永遠の命を受ける。このことが約束されているのです。