聖霊降臨節第1主日礼拝説教 聖霊降臨日

2021年5月23日

使徒言行録 2:1-11

「聖霊に満たされて」

 今日は聖霊降臨日です。ペンテコステとも呼ばれる日です。先ほど読まれた聖書では五旬祭という名前が用いられていましたが、これは「50日目」を表す言葉です。「ペンテコステ」という言葉も、ギリシャ語の50番目の日という意味の「πεντηκοστή [ἡμέρα]」に由来する名前です。

 いったい何から数えて50日目なのかと申しますと、過越し祭から数えて50日目という意味です。もともと、過越し祭は麦の初穂が捧げられる祭りでした。過越しの日からは刈り入れが始まりますが、それには50日が必要でした。そして、小麦の刈り入れの完了を祝う日、つまり収穫感謝の祭りとして、ペンテコステが祝われていました。

 ペンテコステの日には二つのパンが神さまに捧げられていました。また、この日には奴隷たちがあらゆる労役から解放されていました。後に、シナイ山でモーセに律法が与えられたことを祝うという、もう一つの意味がこの祭りの意義として加わりました。

 たくさんの人々がこの日を祝うために集まっていました。イエスさまの弟子たちも、一つの家に集まって、ペンテコステを祝っていました。すると天から激しい風が吹くような音が聞こえてきました。

 今の私たちは風とは空気が移動する現象であると知っていますが、当時の人々にとって風は目に見えない不思議な力です。

 その事が最も顕著に表されているのが、創造の物語です。創世記の第1章では、世界が創造される前には神の霊が水の表を動いていたと記されていますが、これは神の息吹がこの世に働いていたという意味です。神さまは風と共に姿を現されました。エデンの園に神さまが入られた時にも、風が神さまと共にありました。

 また、風は命の象徴でもありました。人の身体の内外を風が行き来しています。つまり息です。エゼキエル書では、神さまが枯れた骨に息を吹き込むと、これらの骨が生き返ったという記述があります。

 旧約聖書においては風、息、霊、共にルーアハという単語が用いられています。神さまが息吹を吹き込まれるということはつまり、そこに霊的な力が注がれ、命が与えられるということを意味しています。家中に神の息吹の音が鳴り響きました。

 すると炎のような舌が現れて、そこに集まっていた一人ひとりの上に留まりました。それは、これらの人々に神さまの御心を語るための力が、聖霊の働きが与えられたことを示しています。

 説教の後に「ありがとうございました。」と言って下さる方が居られます。実は私には、そのように言って頂いた後に、どのように返事をして良いのかが分かりません。

 と申しますのも、私は私の能力によって説教を語っているわけではないからです。その時に語る言葉は、全て神さまから頂いた言葉であって、私からは何も出ていないから、お礼を言っていただくべきは神さまに対してであって、私にではないからです。

 この「神さまから言葉を頂く」ということは、決して概念的・観念的なことではありません。直接的に、身体に感じることなのです。

 私が大学3年生の時の事です。新入生のためのオリエンテーション・フォーラムの中のプログラムとして、夕食後の礼拝で私にメッセージを語るようにと仰せつかりました。

 それは、私にとっては初めてのことでした。ですから、相当前から、具体的には3か月前から準備を始めていました。準備と申しましても、専門書や注解書を調べて云々ということではなく、ただことあるごとにその礼拝のために与えられている聖書の箇所であるマタイ11章28節から30節を読み、祈るということを繰り返す、それだけのことでした。

 こういうことを繰り返していると、夢の中にまで聖書の御言葉が出て来るようになります。夜中に起きて、ベッドの上で祈りを捧げたということもありました。このように準備の期間を過ごす中で、少しずつメッセージの内容が定まって参りました。

 そして、いざ礼拝が始まってメッセージを語ろうとしますと、口から出て来る言葉は、事前に準備していた言葉とは違う言葉でした。自分の意志とは別の力が言葉を発している、そのような感覚でした。

 ではそれが支離滅裂だったり、突拍子もないことだったりしたのかと申しますと、そうではありませんでした。確かに言葉も整っていませんでしたし、内容的にも稚拙と言いますか、あまりにも直接だったと思います。それでも、一番大切なこと、イエスさまがおっしゃった「すべて、重荷を負って苦労している者はわたしのもとに来なさい」というメッセージは伝わっていました。

 私は今でもそうですが、何をお話しすべきか、あらかじめ一言一句全て用意しています。原稿として言葉を用意する時にも、私が言葉をひねり出しているのではなく、ビジョンが与えられて、それを文字として書いているだけです。

 実際に説教する段になって、原稿から外れてお話しをすることが時折ありますが、その時にはそれを話すべきだ、そのように話をすべきだという働きかけが私を動かすから話しているのであって、それは私の内から出ている言葉であるという実感は全くありません。

 私は、神さまから頂いた言葉を受け渡ししているだけなのです。それは、誰か特別な人にのみ出来る事というわけではありません。神さまの聖名によって集められている全ての人にこの力、聖霊が注がれていて、全ての人が神さまの栄光を語るのです。それがハッキリと表されたのが、このペンテコステの出来事なのです。

 この日、一つの所に集まっていた人々に神さまの霊が注がれました。ここから教会が始まりました。その教会でこれらの人々はどのようなことをしていたのでしょうか。教えを守り、交わりをなし、パンを割き、祈ることに熱心であったと使徒言行録は伝えています。つまり、聖書が読まれ、それを聞くことに熱心でした。皆が持ち寄ったパンが神さまからの恵みとして分かち合われ、皆で食事をすることに熱心でした。そして、皆で祈ることに熱心でした。

 五旬祭の由来は、パンを捧げ、収穫を感謝する日であると申しました。また、モーセに律法が、つまり聖書が与えられたことを祝う日であるとも申しました。そして、この日には労役から解放される日であるとも申しました。私たちは日曜日ごとに集まり、聖書の御言葉を聞き、神さまに感謝し、恵みを分かち合います。この日以上に、教会の始まりに相応しい日があるでしょうか。私たちは毎週、これと同じことを繰り返しているのです。

 残念なことにカルヴァンはそれまで毎週行われていたパンを割くこと、つまり聖餐式を毎週は行わないような習慣を作ってしまいましたが、礼拝の中心は聖書とパン割きです。霊も身体も神さまが養ってくださっているのだということを直接に実感すること、そして、私たちはパンを分かち合うことで一致できるのだということを体験するために、パン割きは、聖餐式は可能な限り頻繁に行われるべきだと考えています。

 そして、礼拝で恵みを頂いた後には、ともに感謝をして、平和な午後を過ごし、月曜日からの仕事に臨むのです。

 日曜日は喜ばしい日、休息の日です。私たちはみんなで休息するために集まります。私たちは満たされるために集まります。私たちは感謝するために集まります。

 皆さんの理想の教会とはどのような教会ですか。実現できるかどうかは別として、想像してみてください。

 私には、理想の教会のモデルがあります。それは、ドラマ「大草原の小さな家」に出て来るような教会です。日曜日には皆がニコニコしながら集まり、午後には近くの木立でお弁当を広げる。そこでは「今日の説教は短くて良かった。」というようなジョークも交えた会話がなされる。

 皆が穏やかになれる。みんなが優しさで満たされる。そのような教会が私の理想です。

 もちろん、いつでも穏やかでいられるわけはありません。いつでも優しくあれるわけではありません。この世は私たちに重荷を乗せます。そのせいで、私たちの心に毒が溜まってしまうこともあります。その毒は、教会に捨てて行ってください。そのために私は遣わされているのですから。牧師に対しては負の感情をぶつけても良いんです。いくらでも聞きます。牧師をサンドバッグにしてくれても良いんです。その代わり、礼拝に集う者同士は穏やかな気持ち、柔らかな言葉でやり取りをしてください。

 「あそこは穏やかだ。あそこなら休める」という印象こそ、教会が誰に対しても開かれているということを知らせる力を持つのですから。あなたの優しさが教会に命を与えるのです。そして、あなたの優しさの源は神さまの恵み、聖霊の働きです。

 今、私たちは聖書の御言葉を聞きました。これからパンを割いて分け合います。午後には、教会総会が開かれて、秦野教会の想いを共有します。互いへの優しい気持ち、穏やかな気持ちを持ってこの教会に集い、またこの教会から出掛けて行きましょう。

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