聖霊降臨節第2主日礼拝説教 三位一体主日

2021年5月30日

エフェソの信徒への手紙 1:3-14

「聖霊による証印」

 パウロはエフェソの町にある教会に宛てて手紙を書きました。エフェソは現在のトルコ西部にある町で、現在では海岸線が後退しているために内陸部にありますが、古代にあっては港町として大変栄えていました。その栄えようは、劇場などの施設の遺跡から思い描くことが出来ます。使徒言行録を見ますと、パウロは第2回宣教旅行の帰り道で、このエフェソに立ち寄っています。


 皆さんは手紙をどのような時に書きますか。つまり、手紙を書く理由です。時候の挨拶やお礼、あるいは特に伝えるべき要件がある時など、その理由は色々でしょう。新約聖書の大部分を占める「手紙」もまた、何等かの目的を持って書かれた物です。例えば分裂しかかっている教会をたしなめたり、道を反れそうになっている教会に、本来の道へと立ち返るように呼びかけたりと、様々な理由で書かれています。多くの場合は、その内容を読み進めれば、その目的が明確に書かれている箇所に出会ったり、あるいは主題として取り上げられている内容から、その主な目的を読み取ることができたりするものです。

 しかし、このエフェソの信徒への手紙には、「これ」という主題が見当たりません。エフェソの教会に何かの問題があって、それを解決するために書かれたというわけではないのです。どちらかと言うと、パウロの神学が分かりやすく要約された説教のようです。

 そしてもう一点、注意しなければならないことがあります。エフェソの信徒への手紙第1章1節には、「キリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ」と書かれていますが、この手紙の、現存している最も古い写本、つまりオリジナルに最も近い時代に書き写された写本には、「エフェソにいる」という文言はありません。

 もともと、この手紙はエフェソの教会に宛てて書かれた手紙ではなく、「聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たち」全員に宛てて書かれた手紙なのです。さらに、その内容を見ますと、いくつかの箇所の記述から、異邦人、つまりユダヤ人ではないキリスト者に宛てて書かれた手紙であるということが読み取れます。

 多くの聖書学者は、この手紙は書き写されて、様々な教会へと回されることを前提として書かれたのであろうと考えています。つまり、他の書簡が「特殊性」を持っているのに対し、エフェソの信徒への手紙は「普遍性」を持っているということができます。

 もちろん、正典に、つまり今日私たちが読んでいる聖書に書かれている言葉は、その全てが、それを読むあらゆる人々に対して神さまが語り掛ける言葉なのですが、このエフェソの信徒への手紙は特に、あらゆるキリスト者に宛てて書かれた、普遍性を持つ手紙であると言えるでしょう。

 さて、先ほど私は、この手紙は説教のようだと申しました。見方を変えると、この手紙はまるで礼拝のようにも見えます。エフェソの信徒への手紙は、全体で6章と、比較的小さな規模の書簡です。ローマの信徒への手紙ですとか、コリントの信徒への手紙などのように、16章もあるような書簡でしたら、全体を外観的に把握するのは少し難しくなるところですが、これくらいの書簡でしたら、全体を眺めて、その構造を把握するということが、それほど難しくはありません。

 第1章からの文章のまとまりを、その機能ごとに分けてならべますと、まず挨拶があり、頌栄があって、祈りがある。その後、説教があり、また祈りがある。そして最後に勧告、つまり勧めの言葉があって、最後に祝福で締めくくられている。私たちの礼拝の構造と良く似ています。

 先ほど読まれました第1章3節から14節には、とても大きな特徴があります。それは原典であるギリシャ語聖書では3節から14節までが、長い一つの文章として記されているということです。日本語の聖書では丸が打たれているために、いくつかの文章の集合のように見えますが、それは翻訳する時に読者が理解しやすいように文章をいくつかに分けたためです。

 では、こんなに長い文章でパウロは一体何を述べようとしていたのでしょうか。パウロは、神さまへの称讃について述べています。私たちが何故神さまを褒め称えるのか。それは神さまが無条件に私たちを愛してくださっているからだとパウロは説いています。

 この愛は、私たちが神さまを愛するよりも前に与えられています。私たちが神さまを知るよりも前に、神さまは私たちを愛されました。「こどもさんびか」の中に、「生まれる前から」という讃美歌がありますが、この歌詞はまさしく神さまの愛が何よりも先行して、あらゆるものに先立って私たちに与えられているのだということを教えています。

 そして、この愛は私たちを、神さま以外の物から選り分けて、選び出して、私たちをただ神さまだけのものとします。神さまは私たちを世から選び出すに際して、御子の血を代償として差し出してくださいました。

 古代において、父親は子どもに対して今では考えられないほどの大きな権利を持っていました。場合によっては子どもを罰するために殺してしまうことも可能なほどでした。この権利は、子どもが誰かの養子となる際には、当然のことながら養父に移りました。

 養子縁組をする時、実父は養父となろうとする人物からお金を受け取っていました。儀式的に実父は3度子どもを買い戻していたそうです。これはきっと、別れ難い心情を持っているということを表す儀式だったのだろうと想像します。最終的には子どもに対する主権は養父に移るわけですが、この時、その子どもはそれ以前に負っていた負債や債務からは完全に開放されます。

 例えば、父親が何等かの負債を負っていたならば、子はその負債も相続しましたが、一度養子に出されると、実父の負債とは全く関係が断たれました。これと同じことが、神さまによる選びの際に起きます。私たちに対する主権は、御子の血によってこの世から神さまへと移されます。この時、私たちは私たちを縛り付けるこの世の道理からは自由にされるのです。

 もちろん、私たちキリスト者も社会の一員として生きているわけですが、生活のあらゆる場で下される私たちの決意は、この世の力によって選択させられるのではなく、キリストの御心によって選択されます。

 新型コロナウィルス感染症が蔓延し始めてから、既に1年半が経過しています。この問題が顕著になり始めた時、様々な教会で流行に対する対応策がとられました。特に問題になったのが、どのように礼拝を守るべきかという事柄でした。ある教会ではインターネット礼拝を導入し、別の教会では感染予防措置を採ることによって礼拝を継続しました。また礼拝を教職だけで守ることにした教会もありますし、それぞれの家庭で礼拝を守るようにした教会もあります。

 多くの教会が悩みましたが、それぞれの教会が持つ論理によって礼拝の守り方を選択しました。その中で私が気になったのは、「教会の礼拝は国家の要請によって閉じられることはない」という論理によって礼拝の継続を選択した教会があったことです。

 私はこの教会の決断を否定しませんが、この論理は間接的にではありますが「礼拝を公開しない」という決断をした教会に対して「国家の要請に屈した」というレッテルを、貼ることに繋がる危険性を持っています。

 礼拝を公開しないことにした教会は、なぜその選択を行ったのか。それは、「命を守ることを最優先にした」からであるはずです。国家の要請に従ったわけではないでしょう。教会の選択は、キリスト者の選択は常に「どのようにすれば神さまの御心に適うか」ということを求める祈りに基づいてなされます。祈りに応じて与えられる神さまの聖霊が私たちに選択をさせるのです。その聖霊の働きは尊ばれるべきです。

 聖餐も同じです。聖餐式において私たちはぶどう酒にあずかります。それは御子が私たちをこの世から自由にするために流された血を思い起こすためです。これが聖餐の秘義の一つです。

 余談ではありますが、新共同訳聖書では「秘められた計画」と訳されている言葉は、昔は「奥義」と訳されていました。言語であるギリシャ語では“μυστήριον”、つまりミステリーです。これをラテン語に訳した時には“sacramento”という言葉が宛てられました。この“μυστήριον”も“sacramento”も聖礼典を指す言葉でもあります。洗礼と聖餐の二つの聖礼典は聖霊の働きによって行われ、また聖霊の働きに与る場です。それは、人間の目からは隠された、秘められた神さまの御心なのです。

 ある教会では聖餐式を長く延期していますが、それも神さまの御心によって延期されているのです。

 礼拝は、双方向のものです。神さまが私たちに御言葉と恵みを与えて下さる。私たちは神さまに賛美と感謝を捧げる。どの教会の礼拝もそうです。そこで神さまに捧げられるものは、つまり私たちの感謝と献身の思いは、前もって神さまご自身によって傷の無いものとされているのです。

 だから誰かが捧げようとしているものについて「傷があるのではないか」という疑いを持ことは相応しくないし、そのような可能性を臭わせることも避けるべきです。誰かの信仰について、疑うことは避けるべきです。誰かの信仰に対して否定的な思いを持っていたのでは、平安な心で礼拝を守れるでしょうか。ただただ、神さまへの感謝と、神さまの御栄えを賛美する思いによって私たちは集うのです。礼拝に集う時、私たちは神さまへの感謝と賛美で一致するのです。

 この主日、私たちは幸いにして礼拝堂に集まって礼拝にあずかることが出来ています。だからこそ、私たちは全ての教会、神さまに招かれている全ての人と思いを一つにして賛美と感謝とを捧げましょう。

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