復活節第6主日礼拝説教

2021年5月9日

マタイによる福音書 6:1-15

「祈りを教えてください」

 今、私たちはイエスさまと共に山に居ます。イエスさまは特に大切な節目で山に登られました。ユダヤの人々にとって山は神さまに近付くことのできる特別な場所でした。イエスさまは私たちに特別に大切な事を語り聞かせるために、私たちを連れて山に登られました。

マタイによる福音書の5章から始まるこの説教は、以前は『山上の垂訓』と呼ばれていました。私などには、こちらの方がしっくりきます。この時イエスさまはいくつかの大切なことをお語り下さいましたが、その中でも今日は「良い事をする時にはどのようにすれば良いのか、何を避けるべきなのか」、そして「お祈りをする時にはどのようにお祈りをすれば良いのか」と言う事をお聞かせくださいました。

これらのことを一言でまとめるならば、「自分を誇示するために善いことを行おうとしてはならない」ということです。自分の利益のために行われる善行は、本当の意味での善い行いではないからです。

施しは世界中で見られる風習で、それは良い事と考えられています。中世以前のキリスト教会も施しを奨励していました。善い行いによって人は神の恵みを受けるにふさわしい者となると考えられていたからです。ただ、施しという行為には大きな問題がありました。それは、施しは、貧困を根本的に克服する力を、貧困のただ中にある人に与えないという問題です。

実は、中世の教会はそれを理解していながら、貧しい人々を根本的に救うことを敢えてしてきませんでした。豊かな人が善行を行う機会を得るために、貧しい人々を貧しさの中に留めておく必要があったからです。教会が社会その物を、そのようなシステムとして作っていたわけです。これは矛盾ですよね。

欧米では近世に至るまで、この問題は解決されずに居ました。これを解決しようとしたのが、実は宗教改革者たちです。特にルターは、人々が貧困から脱出するためのシステムとして『ヴィッテンベルク共同財庫』という基金を作りました。これは必要に応じて自らを養うための資金を、施すのではなく貸し出す、それも無利子で貸し出すというもので、借りた人には返す義務がありましたから、当然働く必要がありました。これによって自助と公助が上手く機能することを狙ったものでした。

ここでは、利益を得る人は誰も居ません。利息を取るわけではありませんから、貸主は利益を得ません。借主も、最終的には自力で返済をしなければならないのですから、直接的に利益を得るわけではありません。これによって得られるのは、生きる力であって、尊厳であり生きる喜びです。しかし、それは何物にも代えがたいほどの大きなものです。利益を避けた結果、実は最も大きなものを得られたのです。またそれは、貸主にとっても喜ばしいことでした。

誰かが一方的な利益を得るような構造では、本当の意味での人助けにはならないのです。

では私たちはどのように「人助け」を行っているでしょうか。日本人には照れがあって、良い事をする際にも目立つことを好まない傾向があります。

その一方で、良い事を行うという事に積極的になりにくいという問題が指摘されることもあります。確かに欧米では寄付行為やボランティアを積極的に行う風習があるのに対して、日本ではそれはあまり広く見られることは無いように思われます。

こう言いますと、日本人の道徳心が欧米人のそれに比べて劣っているのかと思えそうですが、決してそうではありません。共に助け合う、『共助』という考え方を私たちは持っています。「相身互い」と言った方が分かり易いかもしれません。この精神は、特に大規模な災害時などに発揮されていますよね。この時にも、自分の行いを大々的に宣伝するようなやり方ではなく、さり気なく行われることを私たちは好みます。

ですので、実は6章の1節から4節までは、私が説教するまでもなく、皆さんは自然と理解できることなのです。

ここでイエスさまが仰っていることは、「自分を大きく見せるために他者、特に自分より弱い立場の人を利用してはならない。」ということです。

では5節から14節まではどうでしょう。先に結論を申しますと、「自分を大きく見せるために神さまを利用してはならない。」とイエスさまは仰っています。

自分が篤い信仰を持つ立派な人物であるという風に見せるために、祈りを通して神さまを利用してはならない。と仰っているわけです。

この辺りのことも、実は私が説教する必要は無いのではないかと思います。祈りを利用するという動機が私たちには無いのではないかと感じているからです。むしろ逆に、祈ることを恐れてはならないと言うべきではないでしょうか。

何かの集まりなどで、そこに集まっている人を代表してお祈りをお願いすることがあります。そんな時、人前でお祈りすることに抵抗を感じる方が居られます。こういう方がお祈りを辞退なさる時に「私はお祈りが上手じゃないから、苦手だから」という理由を挙げることがあります。

お祈りに上手い下手はありません。そんなことを言い出したならば、私も人前で祈ることが得意ではありません。つっかえつっかえ祈っているということを、皆さんはご存知のはずです。緊張すると若干どもるクセがあるのです。また、何を祈るべきか分からなくなることも多々あります。でも、そんなことは関係無いのです。その時、神さまに一番聞いていただきたいことが述べられていればそれで充分なのです。

例えば食前の祈りであれば、「この食事を感謝します」であり、信仰告白であれば、「神さまを愛します」であり、誰かのための祈りであれば「誰それを祝福してください」とか「お守りください」で充分なのです。

もっと申しますならば、言葉にならない祈りでも良いのです。大切なことは、神さまを呼び、神さまを求め、「アーメン」と言う事。これだけです。

そして、祈りのモデルと言いますか、私たちが常に祈り求めるべきこととして『主の祈り』を与えて下さいました。

この祈りを貫いているのは、「すべては神さまの御心による」という信仰です。自分の力で何かをさせて下さいと言う風には祈っていませんし、何かを自分の思う通りにできるようにとも祈っていません。一貫して、「神さまの御心、御力によって私たちを活かしてください。」と祈っています。

「いやいや12節では『わたしたちも赦しましたように。』と自分の行為を交換条件として付けているじゃないか、これは自力ではないか。」と考えられる方も居られるかもしれません。これは翻訳のカラクリです。

ギリシャ語文法の時制、つまり現在、過去、未来の言い方は日本語や英語とは少し違います。翻訳し辛いのです。ここを直訳すると「赦しましたから」となりますが、これでも意味は通りづらい。

昔、お世話になったギリシャ語の教授が、主の祈りについてこんなことを仰っていました。

「主の祈りの中には『私たちも私たちに負い目のある人を赦しましたから』という一文があるが、ここにどうしても引っ掛かってしまう。何故ならば赦せていない人も居るから、それを交換条件にして赦しを乞うことが出来ないのだ。」

こういう感覚を持つ人は少なくないと思います。ずっとこの問題について考えていました。そして今回気付いたのです。

ギリシャ語の原文では『赦した』に相当する単語『ἄφες』という単語が用いられていますが、これは『ἀφίημι』という単語の過去完了形です。ギリシャ語で過去完了形は、過去に1回行われたことを表す形です。

「これまでに起こった全てのことを許した」と言い切ることが出来る人は居ないでしょう。それと同時に「これまでに起こった全てのことについて、一回も許したことが無い」と言う人も居ないでしょう。ここでは、「人生の中でたった一回でも赦したから、その事と引き換えに私の負い目を赦して下さい。」と願っているのです。まるで「蜘蛛の糸」です。これはもう、ほとんど「無条件に赦して欲しい」と言っているのと同じですよね。

それを人間が言うのであれば、とても虫の良い話ですが、神さまの御子であるイエスさまが「このように祈りなさい」と教えてくださっているのです。イエスさまは、「神さまは無条件で私たちに必要なものを全て与えて下さる。ことに、無条件で私たちを赦して下さるのだから、遠慮なくそれを願いなさい。」と教えてくださっているのです。

この祈りの前で、私たちはただただへりくだることしかできません。これでは祈りによって自分を大きく見せるなんてことは不可能です。祈れば祈るほど、自分の小ささを知ることになります。そして、神さまの大きさを知る事になります。

この祈りを通してイエスさまが語って下さるのは、神さまは何らの対価も求めることなく、私たちに与えて下さるということです。そのような神さまのもとで生きることを願う時、私たちは他者から見返りを求めることが出来るでしょうか。善を行う時に、見返りを目論むことが出来るでしょうか。

私たちは、優しくしてもらったから優しくするんです。神さまから無償で頂いたから、私たちも無償で与えるんです。善意に利益を乗せることをしないんです。愛に利益を乗せることなど不可能なのです。

さりげなく、相手に負い目を負わせることなく、愛を行えるようになりたい。その様な者としてくださいと、一緒に祈りましょう。

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