聖霊降臨節第4主日礼拝説教

2021年6月13日

フィリピの信徒への手紙 2:12-18

「世にあって輝く」

 パウロはフィリピの町にある教会に宛てて手紙を書きました。フィリピの教会とパウロの間には緊密な関係が存在していました。使徒言行録を見ますと、フィリピの町はパウロがヨーロッパに上陸して最初に福音を宣べ伝えた場所であるということが分かります。

フィリピへの滞在期間はほんの数日程度でしたが、主が紫布を扱う商人であるリディアという女性の心を開かれたので、彼女も彼女の家族も洗礼を受けたとあります。彼女はパウロにとっての強力な支援者となったようです。

このフィリピの町は、かつては金や銀の鉱山がある豊かな町でした。パウロの当時にはローマ軍の植民都市へと町の性格を変えていましたが、交通の要衝でもあり、重要視される町でした。

植民都市と言いますと、現地の住民から収奪が行われたのではないかと考え勝ちですが、それは「植民地」という言葉が持つ印象の故でしょう。大航海時代から近現代に掛けて欧米列強が自国以外の場所に持っていた土地を植民地と言いますが、それは正にバランスを著しく欠いた一方的な貿易によって利益を貪るための土地でしたが、古代ローマの植民都市はそれとは性格が違います。

軍隊での務めを果たした退役軍人たちに、退役後の生業を与えるために自分たちで開墾したり商売をしたりすることの出来る場所として与えたのが植民都市です。ローマは既存の町を彼らに与えるのではなく、文字通り新しい木を植えるように、何も無い場所や、それほどの勢いを持たない土地に退役軍人たちを住まわせ、新たな町を起こさせたのが植民都市です。リディアが紫布という高級品を扱っていたということからは、このフィリピの町がある程度豊かであるということが読み取れます。

この町にはユダヤ人も住んでいました。海外に住むユダヤ人は、自分が住む町の中に会堂を持ち、その会堂を中心として自分たちのコミュニティーを築くということを行うことが多かったのですが、中には特定の建物を会堂とせず、「祈りの場」という屋外の場所に集まって集会を行う人々も居ました。フィリピでも、町から西に2kmほど行った所にある川の畔で集会を行っていました。

パウロはここに出掛けて行き、キリストの教えを宣べ伝えました。その結果、先ほども申し上げました通り、リディアを始めとするユダヤ人ではない人々がイエスさまを信じるようになりました。

しかし、フィリピの信徒への手紙を読みますと、この教会は危機的状況に置かれていたようです。二つのグループが教会内に存在し、それぞれに福音を宣べ伝えているのです。それらのグループの違いはパウロとの関係にも表れていました。一方はパウロに親しみを覚えているのですが、他方はパウロを敵視しているようです。

この手紙が書かれた時、パウロは牢獄の中にいました。どちらのグループも宣教には熱心だったのですが、一方のグループは「パウロへの愛の動機からキリストを宣べ伝えている」のに対して、もう一方のグループは「自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという動機からキリストを告げ知らせている」とパウロは記しています。

おそらく、パウロに親しむ方のグループは自分たちの信仰がどのようなものであるのかが明らかにされれば、理解者が増え、結果としてパウロが釈放されると考えて熱心にキリストの教えを宣べ伝えているのでしょう。しかし、もう一方の方は逆に、パウロを貶めるためにキリストの教えを宣べ伝えているようです。キリストを宣べ伝えることが、どのような理屈でパウロを苦しめることに繋がるのかは分かりませんが、どうやらそのような構造であるようです。

今、二つのグループが競い合うようにして熱心にキリストの教えを宣べ伝えています。パウロは動機がどうであれ、キリストが告げ知らされることを喜んでいます。パウロに親しい方のグループの教えが広まれば、パウロは牢獄から解き放たれることでしょう。パウロを敵視する方のグループの教えが広まれば、パウロは処刑されてしまうかもしれません。少し先を読みますが、17節の「たとえわたしの血が注がれるとしても」という言葉からは、パウロがそれくらいの危機感を持っているということが読み取れます。それほど危うい立場に置かれても、パウロはキリストの教えが告げ知らされることは良いことだ、その結果、自分が処刑されたとしても、私はそれを喜ぶと言っています。

しかし、一つの教会の中に二つのグループが存在していること、それもそれぞれが敵対関係にあると言う事は良いことではありません。パウロは、互いにへりくだることが大切であると説いています。そのことを説くために、かつて神の御子であるイエスさまがへりくだって人間の姿を取り、十字架の上での死に至るまで従順であったことを思い起こさせています。

本来であれば罪とは無関係であったはずの方が、人々の罪を負うために本来の尊いお立場を離れて人となり、鞭打たれた後に十字架の上で苦しい死を遂げられた。教会はこのイエスさまこそ救い主であると宣べ伝え、イエスさまに従うことを宣言するのですから、教会に集まる者同士もイエスさまに倣って自分の立場に執着せず、互いに謙って心を配るのが、互いへの愛を行うことが、またそれを通して教会が世に対して愛を行うことが、教会のあるべき姿だと説くのです。

教会に集まる人々には、それぞれに欠けがあります。同様に、それぞれに掛け替えの無い賜物を持っています。この賜物を互いに大事にし合う、それが教会という群れの本来の姿なのです。この賜物は、神さまから頂いた賜物であり、また神さまのために用いられるべき賜物です。これを、自分たちの競争心や虚栄心のために用いるのではなく、愛を行うために用いよと言うのです。

この姿勢は、教会の中だけで発揮されるべきことではありません。むしろ教会の外でこそ積極的に発揮されるべきことでしょう。

私たちは教会の中だけで生きているわけではありません。それぞれに生活の場があります。私たちは教会という、神さまと共に暮らす家からそこに遣わされているのです。その場、その場にあって私たちがイエスさまの御姿に倣う時、私たちは星が夜の闇を旅する人々を導くように、私たちの周りに居る人々に歩むべき道を示すことができるようになるのです。

遣わされた場において、そこに居る人々がそれぞれの利益を求めるのではなく、互いに謙り、互いに愛を行い、群れの外に愛を行うことができるようになる、それこそがキリスト者の努力が報われるということであり、そのためになら苦しんでも良いとパウロは説いているのです。そして、できることならば、同じような思いを持って欲しいと説いているのです。

人が利益を求めるのは、仕方のないことでもあるのです。それは自分を守るということと繋がって来るからです。しかし、そこを譲ってしまうと本当に自分自身が成り立たなくなってしまうのかと問い直すことも大切でしょう。そして、譲っても問題の無い事は譲ってしまって良いと思います。駆け引きをする必要は私たちには無いと思うのです。

フィリピの教会では、パウロを挟んで二つのグループが対立し、それぞれの主張のために宣教をしていました。それは宣教合戦とも言えるような状態でした。パウロは熱心に宣教が行われることについては良しとしましたが、そのどちらについても、どちらかが正しく、どちらかが間違っているとは言っていません。パウロの願いは双方が互いに謙って、認め合って、助け合って宣教することでした。福音は競争心や執着によって宣べ伝えられるべきではないからです。

私たちにとって大切なことは、それぞれに神さまに与えられた賜物を互いに引き立て合うこと、それによって神さまの道をこの世に示し、誰もが神さまの恵みの中を、慈しみの中を、愛の中を歩める、そういう世の中を作るため、自分自身を捧げることです。

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