聖霊降臨節第6主日礼拝説教

2021年6月27日

使徒言行録 4:32-37

「分け合う喜び」

 使徒言行録は、初代教会が形成され始めた当時の様子を私たちに伝えています。

ペンテコステの出来事の時、弟子たちに聖霊が注がれ、彼らには神さまの栄光を言い表す力が与えられました。そして彼らは礼拝を守り、そこで語られた神の御言葉を現実の生活にただちに反映させていました。その中でも中心的な事として使徒言行録が伝えているのは、礼拝においては彼らが熱心に使徒の教えと相互の交わり、パンを割くこと、祈ることに熱心であったということです。

その当時の礼拝の様子は聖書以外の書物からもうかがい知ることができます。例えば2世紀に活動した「教父」と呼ばれる神学者たちの一人、ユスティノスは、著書「第一弁明」の中で次のように書き記しています。

「太陽の日と呼ぶ曜日には、町ごと村ごとの住民すべてが一つ所に集い、使徒たちの回想録か預言者の書が時間のゆるす限り朗読されます。朗読者がそれを終えると、指導者が、これらの善き教えにならうべく警告と勧めの言葉を語るのです。それから私共は一同起立し、祈りを献げます。そしてこの祈りがすむと前述のように、パンとブドウ酒と水とが運ばれ、指導者は同じく力の限り祈りと感謝を献げるのです。これにたいし会衆はアーメンと言って唱和し、一人一人が感謝された食物の分配を受け、これに与ります。」

これは正に、私たちが今も守っている礼拝の形式が初代教会の時代、既に形作られていたということを意味しています。

イエスさまが十字架に付けられた時、弟子たちは居場所という意味でも、心の在りようという意味でも、散り散りバラバラになっていました。しかし、復活されたイエスさまと再会し、聖霊が注がれると心を一つにして礼拝を守り、それだけではなく逮捕され、議会に引き出された時にも大胆に神さまの栄光を語る事ができるようになりました。

彼らは生活も共にし始めます。イエスさまを信じる人たちの暮らしぶりを見た周囲の人たちは、彼らに好意的な目を向け始めました。

この群れの中には貧しい人は一人もいなくなりました。何故ならば、何かに欠乏している人が群れの中に居る時、この群れの人たちはその欠乏を満たすことを自らの望みとして、持っているものを分け与えたからです。分かち合うということが、最も現実的な意味において実践を伴っていたのです。

何かが必要となった時、持っている人は自分の持っている物を差し出しました。これにより、必要としている人は、必要な時にそれを用いることができました。それは財産の私有を否定するという意味ではありませんでした。彼らは自分たちが持っている物の中から必要な時、その必要に応じてその都度差し出していたのです。

これは生活の新しい創造とも言える、画期的な出来事でした。それは規則や制度、あるいは法によって強いられるのではなく、彼らの望みとして行われるようになったことでした。愛の行いが義務ではなく、それを行う人の望みとして行われるようになったのです。

イエスさまを信じて集う人々から、自分だけの豊かさを追求するということへの執着が無くなりました。物を惜しむ気持ちが無くなったのです。その時、彼らは共に暮らす人々に今何が必要で、自分が何をすべきかということを真っ直ぐに見て理解することができるようになり、またそれを躊躇無く提供することができるようになりました。

彼らは自分たちの群れの外に居る人たちにも、同じような姿勢で臨みました。彼らが人々と分かち合おうとした、最も大きな財産こそ、イエス・キリストという宝でした。もし彼らがキリストの恵みを自分たちの内だけで独占しようとしたとしても、それは不思議ではなかったはずです。何故ならば、弟子たちの群れの外に居る人々とは、イエスさまを十字架につけようとした人か、あるいはその様子を黙って見ていた人なのですから、弟子たちが周囲の人々に反感を持ち、イエスさまの教えを周囲から見えない所に隠してしまうということも可能性としては有ったのです。それなのに、弟子たちは周囲の人々に「あなたたちも愛されている」と、キリストの恵みを宣べ伝えていたのです。

それは義務感からできるようなことではありません。今、その人に必要な物を自分が持っているのであれば、それを渡したい。使ってもらいたい。それが手元に無くなったら、将来自分が不便をするかもしれないなどという心配はしなかったのです。そんな心配はしなくても良かったのです。私たちはまだ現実になっても居ない欠乏について、予め思い悩まなくても良いのです。

彼らは信じていました。自分が何かを必要とした時には、その時改めて必要を満たす何かが与えられる。だから安心して与えることができたのです。それは神さまが約束してくださったことです。私たちが何かを必要とする時には、必ず与える。その時には、私たちが今日差し出した物にまさる良い物を与えて下さる。だから、快く差し出す。その生き方が、周囲の人々の心をも和らげたのです。

私は昔、その日食べる物にも事欠くような経験をしました。本来ならば親や親族といった、大人による保護が受けられたはずの時に助けを求めることも出来ず、食べ物のことで苦しい思いをしたことがありました。貧しいということで口惜しい思いをしたことがありました。その私は今、多くの物を与えられ、満たされています。だから、弟子たちが使徒たちの足元に持っているものを置いたように、私も持っている物を差し出そうと思います。私が持っている物を必要としている人が居たならば、それを差し出したいと思います。食べ物が無いということの惨めさを、飢えに一人で耐えなければならないという辛さを子どもたちに味合わせたくないから。食べ物を施すのではなく、一緒に食べられるような関係を結びたいのです。

恵みを与えるのではなく、頂いた恵みを共に喜ぶような関係を結びたいのです。食卓を共に囲む喜びを味わいたいのです。

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