聖霊降臨節第8主日礼拝説教

2021年7月11日

使徒言行録 19:32-37

「約束の地への道」

 パウロは今、エフェソの町に居ます。パウロにとっては2回目の滞在です。前回の滞在は第2回の宣教旅行の終わりの時期でした。この時にはアキラとプリスキラという夫婦が同行していましたが、それ以来この夫婦はエフェソの町で福音を宣べ伝えていました。

この夫婦はユダヤ人でしたが、彼らのようにユダヤ以外の土地に住んだり旅をしたりするユダヤ人は少なくありませんでした。その中には祈祷師もいました。ユダヤ人と言いますと、何となく呪術だの呪いの類とは縁遠いように思えますが、実はこの時代のファリサイ派の人たちは悪魔に憑かれた人に対しては悪魔祓いを行っていましたので、祈祷師は比較的身近な存在であったようです。

この祈祷師たちはどのようにして悪霊を払っていたのでしょうか。ヨセフスという人物が書いた「ユダヤ古代誌」という書物を見ますと、薬草を用いていたという記述があります。また、同じヨセフスの別の著書である「ユダヤ戦記」の記述を合わせて考えますと、それはマンドラゴラではないかと思われます。マンドラゴラはアルカロイドを含む毒草であり、をれを用いる者は幻覚を見ます。つまり向精神作用のある植物です。

古代においては現代でいう所の精神疾患の類は悪霊に憑りつかれて起こると考えられていたようです。そうしますと、このユダヤ人の祈祷師たちが行っていたことは、この時代における医療の一つの形であると考えることができます。

さて、パウロはエフェソに滞在している間に多くの病人を癒しました。神さまがパウロの手を通して奇蹟を行われたのです。イエスさまも同じように多くの病人を癒されましたが、イエスさまの御手の業と同じような事がパウロを通して行われました。ただし、それはパウロの力によってではなく、神さまの御力がパウロを通して働いたのだと使徒言行録は明確に記しています。

これに祈祷師たちは興味を持ちました。彼らにとってはパウロのしていることは自分たちの仕事と競合することであり、しかもそれが目覚ましい結果を伴っているので祈祷師たちの関心を引いたのです。彼らは彼らなりに実証実験をしてみました。パウロがしているのと同じように、自分たちの許に来た人たちに対してイエスさまの御名によって癒しを行おうとしたのです。

同じようなことをした人は、イエスさまが地上を旅しておられた時にも現れていました。マルコによる福音書の9章を見ますと、イエスさまの御名を用いて悪霊を追い出している者についての報告をヨハネがしています。この時、ヨハネが「やめさせようとしました」と報告したのに対してイエスさまは「やめさせてはならない」と答えられました。それは「わたしの名を使って奇蹟を行い、そのすぐ後でわたしの悪口を言うことはできないだろう。」という理由でした。

マルコに記された人たちは悪霊を追い出すことに成功していたようです。しかし、今回は少し違った結果になりました。悪霊から手痛い反撃を受けてしまったのです。ユダヤ人の祭司スケワという人の息子がイエスさまの御名を用いて悪霊を追い出そうとしたところ、悪霊は「お前たちのことなど知らない」と言って、スケワの息子たちに飛び掛かって散々な目に合わせたのです。

悪霊たちは「イエスのことは知っている。パウロのことも良く知っている。」と言っています。どうやら祭司の息子よりも悪魔の方が情報に通じているようです。悪霊はイエスさまが神の御子であるということを知っていました。またパウロがイエスさまの弟子であるということを知っていました。パウロはイエスさまの御名を信じる者だから、つまりイエスさまが宣べられた福音を信じる者だから、イエスさまの御名をパウロが口にする時、そこにイエスさまの御力が働くのだ。しかし、お前たちはイエスさまを信じていないから、どれだけ御名を使おうとしたところで無力だと言うのです。

ドラキュラを皆さんご存知だと思います。夜の闇に紛れて若い女性を襲う吸血鬼として良く知られています。ドラキュラの弱点も良く知られています。ニンニクが苦手で日の光を浴びると灰になってしまう。そして十字架に近付くことが出来ない。なぜそれらが弱点なのかについて色々な考察をしている人がいますが、吸血鬼は十字架その物を恐れるのではなく、十字架を持つ人の信仰心を恐れるのだと読んだことがあります。

信仰を持つ者が掲げる十字架を吸血鬼が恐れるのとは逆に、悪霊たちは信仰を持たない者が口にしたイエスさまの御名を恐れませんでした。

これは大変面白い構図だと思います。イエスさまの御名を、興味本位で用いようとした人たち、イエスさまを信じてもいない人たちが裸にされて這う這うの体で逃げて行くという絵面がまず面白いですが、それ以上に結果的に悪霊たちは御子イエスを信じることにこそ力があるのだ、信じるからこそ、その人を通して神さまの御力が働くのだということを証ししているということが大変面白いと思います。悪霊が信仰の大切さを私たちに告白し、教えているのです。

信仰を持っていない人は、七人掛かりでもたった一人の悪霊に敵いませんでした。この事がパウロを通して行われる神さまの御業の素晴らしさ、イエスさまの御名をより明らかにし、エフェソに住む人々、ユダヤ人にもギリシア人にも知られるようになりました。この事の持つ意味、何が大切なのかということを使徒言行録は極めて慎重な言葉遣いで教えています。この出来事はパウロの名を高めたのではなく、主イエスの御名を高めたのです。

使徒言行録のテーマは、聖霊の働きです。イエスさまの御名を信じる人たち聖霊が注がれたというペンテコステの出来事に始まり、どのようにしてこれらの人々を通じて聖霊が働いたのかということが使徒言行録の大きなテーマです。

今日読まれた出来事に働いたのは、悪霊と聖霊という二つの力でした。悪霊は人を苦しめていました。この悪霊が最終的にどうなったのか、パウロによって払われたのかどうかということは記されていませんが、この悪霊は神さまの御業、主イエスの御名を証ししました。苦しみを通してわたしたちに真実を教えられる、そのようなことも神さまはなさるのです。その時、わたしたちはどうすれば良いのか。苦しみに直面してどうすれば良いのか。

今日の御言葉は医療を否定しているわけではありません。魂の問題は、霊の事柄は霊によってしか解決できないと申し上げているのです。

霊の問題に直面した時、魂の問題に直面した時、わたしたちが頼りに出来るものは何か。それこそ御言葉です。神さまがわたしたちを約束の地へと導くために与えてくださった、愛の御言葉にわたしたちは依り頼むのです。御名によって祈り、注がれる愛によって癒され、愛によって導かれて道を歩むのです。

そして教会は御名によって集められた群れです。ともに荒れ野を旅する群れです。神さまが約束してくださったカナンの土地を目指して歩む群れです。わたしたちはいつでもこの家族と、この道を歩む神の家族と一緒なのです。

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