聖霊降臨節第9主日礼拝説教

2021年7月18日

ローマの信徒への手紙 9:19-28

「神は取り戻す」

 コリントに居るパウロの視線は、地中海世界の西と東とに注がれています。 ローマの信徒への手紙の成立年代は西暦58年であると考えられています。この時、パウロはコリントの町に居ました。コリントは現在のギリシャにある町です。当時の世界観は地中海沿岸地方を中心に西の端はジブラルタル海峡の外側、今のリスボンがある辺りで、東はインドまででした。

この手紙の締めくくりである第15章にはイスパニアに行きたいというパウロの希望が記されています。当時の感覚ではイスパニアは世界の西の端です。伝承ではトマスがインドまで赴いて宣教したと言われています。それが歴史的な事実であったかは不明ですが、世界の端々にまでキリストの福音を宣べ伝えたいというパウロの願いは、世界の西の端に行きそこで伝道することだったのでしょう。

その前にパウロにはすべきことがありました。一つには、西方での伝道の拠点としてローマに拠点となり得る教会を建て、そこに神学の基礎を植えること、もう一つは全ての教会の母であるエルサレムの教会を支えるために、諸教会からの献金を届けることでした。

これらの課題への答えとして、パウロはローマの信徒に宛てて手紙を認めました。このローマの信徒への手紙の内容は、いわばパウロの神学を総論的に著述した神学論文です。この論文の中でユダヤ人と異邦人の関係について論じ、エルサレムの教会を支えるべき根拠を示しています。エルサレムの教会を支えることを通して、全ての教会が一つの教会であり、互いに対して責任を負っていることを、信仰的に若い人々に教えようとしたのです。

異邦人キリスト者にユダヤ人に対する疑問が生じるのは自然な感情だったでしょう。何故ならば、ユダヤ人はイエスさまを拒絶したからです。神の御子を拒絶した人々は神の民と言えるのだろうか。イエスさまを十字架に付けたユダヤ人が果たして神の民を自称し続けることが妥当なのかという疑問が生じるのは、ある意味で当然の事だと思います。

この疑問への答えが、9章から11章に記されています。9章の前半でパウロは、神の民を定義しています。神の民とは血統によってアブラハムに繋がる者のことではないとパウロは述べています。6節では「イスラエルから出た者が御名、イスラエル人であるということにはならない」、7節では「アブラハムの子孫だからと言って、皆がその子供ということにはならない」と書いてある通りです。

続けてパウロは「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」と創世記の記述を引いて論じていますが、これは「神を信じることによって義とされたアブラムとの間に結ばれた契約を通して生まれた子どもがアブラハムの子孫であり、私はその子どもたちの神となる。」という約束を根拠として、神の民とは神を信じる者のことであると述べています。つまり、異邦人もキリストを通して神を信じているから、神の民であると結論付けています。

異邦人キリスト者たちにとって、ユダヤ人たちは理解しがたい人々だったのかもしれません。神の御子を通して、とても素晴らしい教えを与えられていながらキリストを拒絶して十字架にかけ、今ではキリストの弟子たちをも迫害している。

この手紙が書かれた7年後にはユダヤ戦争が勃発し、ローマと戦争状態に入りますが、ユダヤの緊張が高まっている時期だったと思われます。外側から見るとユダヤの人々は幸せではない、自ら不幸の中に進んで行くように見える。まるで神さまから見捨てられてしまったかのように見えていたのです。

これらの事、特にユダヤ人がイエスさまを拒絶したことについてパウロは、それは必要なプロセスであったのだと述べます。人をどのように用いるのか、一人ひとりにどのような役割を与えるのかは神さまの御心次第であって、それについて云々することは私たち人間には許されていないのです。

いつ、誰が、どのようにして選ばれるのか、どのような役割を与えられるのか、何を与えられ、何を取り上げられるのかと言う事を知ることは人間には全く出来ません。このことをパウロは焼き物師と器を例えに用いて述べています。

ある人物が特定の時点では苦しみを与えられ、神の祝福を失ったかのように見えても、その人が将来に渡って苦しみ続けるのかということは誰にも分かりません。神さまがその人をどのように用いられるのか、いつからいつまでその働きを与えられ、いつからいつまで別の働きを与えられるのか、それは人間には分かりません。そのこと示す例として、ハガルとその子イシュマエルのことを挙げることが出来ます。

子を宿すことの無かったサライは、自分の奴隷であるハガルによって子をなすことをアブラムに勧めました。その結果一人の男の子が生まれ、イシュマエルと名付けられます。しかし、この後アブラハムにはサラとの間にイサクが与えられました。

先に生まれたイシュマエルはイサクをからかっていました。これを見たサラはハガルとイシュマエルを追放するようにアブラハムに要求します。アブラハムは致し方なくこの母子を追放します。何も無い荒れ野を彷徨う母子は、持たされていた食料と水が無くなるとたちまち命の危機に陥ってしまいます。死にそうになっていた彼女らに神は語り掛け、保護を約束されました。

イシュマエルはアブラハムから離れて行きましたが、彼もまたアブラハムに神の御力を示す器でした。

この出来事が私たちに教えていることは、神の約束の外に生きる人、つまり福音を知り、受け容れることが出来ないでいる人にも神の御力は及び、保護が与えられているということです。パウロは更に一歩進んだことを宣べ始めます。パウロはホセアを引用しています。

「わたしは、自分の民で無い者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは行ける神の子らと呼ばれる。」

ここでは神と人との関係、神と神の民との関係における逆転が描かれています。罪の中に生まれた子どもが神の民として受け入れられていく様子が描かれています。

神と人間の関係とは常にこのようなものでした。神の民とされた人々は度々神に背いて道を踏み外しますが、その都度神は民を赦し、回復し、神の民として迎え入れる。この繰り返しでした。

人の罪に対して神さまは行動を起こされます。罪に落ちた人に対して、神さまは救いの御業を行われます。だから人は自らの罪を通して神の赦しを見ることが出来ます。この事が勧めるのは進んで罪を行えということではありません。自分の罪を見詰めなさいということです。自分が御心に適う者ではないということを知る時、神さまから離れているということを知る時、神さまの救いを知ることが出来るのです。

そして、もし今、神さまから離れている人を見付けたならば、神さまはその人にこそ救いの御手を伸べようとしておられるのだから、あなたがたに自らを神さまの器として差し出す意志があるのであれば、その人に手を差し伸べなさいとパウロは語ります。

その手段こそ、愛を行うということです。

まずあなた方が愛の内に生き、他者を愛することから始めなさい。誰からも誹られることのない生き方をし、愛を行えば、隣人を福音の内に招くことが出来る。「異邦人よ、主の民と共に喜べ」(15:10)、「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ。」(15:11)と15章にある通りです。

確かにユダヤ人はイエスさまを拒絶しました。それでも神さまに愛された人たちなのだから、エルサレムの教会を支えるためにあなたたちが行動を起こしてくれたならば、ユダヤ人もイエスさまが良いことを教えて下さっていたということを知るようになる、そのことをパウロは期待していたのです。伝道とはそういうことの繰り返しなのです。

私たちの周りにも、私たちには理解できないような人が居ます。それは事実です。しかし、私たちがその人のことをどのように考えようとも、その人もまた神さまに愛される子どもです。もしもその人が神さまから離れて行こうとしていたならば、神さまはその人を御許へと引き戻そう、導こうとなさいます。その時に誰が遣わされるのかは分かりません。

だからこそ、私たちが召し出されても良いように、いつでも御心に応えることができるように、その心づもりをしておきましょう。その人も神さまに愛される子であるということを忘れないでいましょう。

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