聖霊降臨節第10主日礼拝説教

2021年7月25日

コリントの信徒への手紙Ⅱ 5:14-6:2

「招かれて分かち合う」

 いよいよオリンピックが始まりました。今回のオリンピック開催については賛成する人もあれば反対する人もあり、様々な意見が飛び交っていました。新型コロナウィルスによる感染症が蔓延している状況でオリンピックを開くことは、大規模な感染を新たに招く恐れがあるのではないかと心配をしていた人が多数であったと思います。

意見の違いは、ほとんどの場合、立場の違いによって生じます。競技を観る立場にある者にとっては、競技を行うことよりもまず安全さを優先してもらいたいと願いますが、競技を行う者にとっては、これまでの努力を無にしたくない、一生のうちに何回与えられるか分からないほど希少な機会を失いたくないという願いを持っており、それは恐らく私たちが想像できないほどに強い思いであったことでしょう。昨日、柔道で金メダルを獲得した高藤選手の言葉からは、競技者としての思いを聞き取ることができるように思います。

アスリートたちは、その競技に熟達することを人生の目標としています。そして、その結果を目に見える形で表すために他の人々と競います。オリンピックは、その競技に懸ける選手が集い、その努力の結果を世界中に問う場です。アスリートにとっては競技が人生の目標であり、毎日の歩みを続けさせる動機であり、人生その物なのです。

パウロは、日々を生きる動機とは何かという問いに、キリスト者にとっての答えを提示しています。私たちの人生の目標を明らかにし、なぜそれを目指すのかという動機を明らかにしています。

キリスト・イエスにとって、地上での御生涯の目的は、全ての人の罪を拭い去り、神さまの愛の内に人々を招くことでした。その為に、人々の罪を一身に負い、十字架に登って死なれたのです。御自分の思いや願いを二の次にして、神さまの御心を第一とし、御心に適うことを求めて生き、生涯を全うされたのです。

私たちには、キリストの死に与って生きることが許されています。同時に、その死に倣って生きるという生き方が選択肢として私たちの前に置かれました。誤解をしていただきたくないのですが、これは自分の人生を捨てよという意味ではありません。これまでの歩みを無かったことにせよという意味ではありません。今までに積み上げてきたものを用いてキリストを証しせよ、また、キリストの証しを積み重ねてこれからの歩みとせよという意味です。

キリストの死を無駄にしたくないという思い、キリストの愛をより多くの人に伝えたいという動機が使徒たちの心に芽生え、それが伝道という手段を選ばせ、各地に建てられた教会という形で結果を残しました。この思いは初代の使徒たちで途絶えることは無く、代々のキリスト者たちに受け継がれ、私たちへと繋がっています。代々のキリスト者たちの熱情の末に私たちは生きています。その生き方に連なる事がキリスト者にとっての人生なのだとパウロは説いています。

日々を生きることの目標がここ数十年で大きく変わったと言われます。戦時中から戦後すぐに掛けては、とにかく飯を食うということが大きな課題として存在していました。飯を食うために働いていました。瓦礫の中の生活から日本が復興し、成長を始めると、次には豊かになること、昨日よりも今日、今日よりも明日が豊かになることが目標となりました。国の成長が頭打ちになると、自己の充実を目標として生きる人々が現れ始めました。

世代によって人生に求める事柄が大きく違うのです。

その様な変化の中にあって、教会が世に対して果たすべき役割も変化して行きました。その変化を、こどもさんびかの変化に見出すことが出来ます。

わたしの記憶に一番強く残っているこどもさんびかは辛子色の表紙の歌集でした。実際に手元に残っているのは青い表紙の歌集です。今の子どもたちが使っているこどもさんびかは改訂版と呼ばれるもので、白い表紙の本です。

これらに納められている讃美歌は、その時代に求められている宣教のテーマによって変化しています。それを一言で言いますと、昔の讃美歌は「いい子になりましょう」という歌詞だったのに対して、今の讃美歌の歌詞は「そのままで愛されているよ」という内容になっています。

このことから、教会が世に語り掛ける言葉に変化があったと言う事を読み取ることができます。だからと言って宣教の根本にある動機にまで変化があったわけではありません。キリストの愛を知ってもらいたいという動機はいつも同じなのです。

決して変わらぬ動機を持って、その上で自分たちが何を語りたいか、どのように語りたいかではなく、どの道筋を通って語ることがより良くキリストを、福音を世の人々に伝えることになるのかという、変化する時代への対応が求められているのです。

「自分はこう伝えたい」とか「自分にはこのように伝えられたから同じように伝える」という道筋ではなく、相手に応じたアプローチとは何なのだろうか、その人に分かり易い語り口とは何だろうかということを求める必要があるのです。それはつまり、これから語り掛けようとする相手への理解です。

相手に変化を期待したり強いたりするのではなく、相手にこちらが合わせるということが教会に求められており、その時代、その時代で教会は変化して来たのです。変化するということに危機感を覚える方もあるかもしれません。確かに変化には危うさも伴います。本質を失うことになってしまわないかという恐れがあるからです。しかし、そこまで強く心配する必要は無いと思います。教会が神さまの赦しを語ろう、キリストの救いを語ろう、聖書の御言葉を語ろうとしている限り、本質的なところでの逸脱は生じないからです。

時代に合わせて語り口を変えることが、より多くの人を招く手段になるのです。

変化は、それまでの積み重ねを否定するものではありません。それまでの蓄積が基礎となって存在しているから変化できるのです。軸足を置くことのできる確かな土台が私たちに自在さを与えるのです。むしろ、変化を嫌うことの方が、これまでの蓄積を無為にしてしまう可能性があります。

神さまは私たち全てに同じアプローチをなさったでしょうか。一人ひとりに合わせて、最も良い語り方をしてくださったはずです。そうやって、私たちの願いを聞き入れて下さったはずです。

教会はキリストの使者です。キリストを伝える者です。御言葉は変わりませんが、語り口はゆっくりとではありますが、変化をしていきます。世の中の変化に応じた宣教をするためにです。世の求める救いを語るために変化します。より多くの人を救いに招くために変化します。

これからどのように変化して行くのか、どう語るべきなのかは神さまがご存知です。救いを求める祈りを捧げるのと同様に、語るべき言葉を求めて祈りましょう。

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