2021年8月15日
ルカによる福音書 18:9-14
「罪人の祈り」 小川和孝神学生
今日与えられた、聖書個所は『 「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ』の、18章9節で「うぬぼれて、他人を見下している人々に対して」語られた譬えであり、14節で「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」とイエス様によって説明されています。
イエス様はたとえを用いていますので、2千年ほど前のイスラエルの人たちに、分かりやすい譬えを用いて、説明され他のだと思います。内容を確認してみたいと思います。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
この譬えは、二人の神殿での「祈り」についての話で、独りはファリサイ派の人で、もう一人は徴税人でした。
イエス様が「二人の祈り」の違いを譬えとして用いたことは、二人の祈りが、神様への信仰を表していたので、この祈りを聞いて、当時のユダヤの人たちがわかり易い事柄であったのだと思います。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。』
一人の祈りとして、ファリサイ派の人の、心の中での祈りの内容を示されました。
主の祈りのはじめのところで、イエス様は語られています。ルカによる福音書11章2節に『 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。・・・』と教えられています。が、ファリサイ派の人は、神殿で祈るのに、言葉に出さず、声も出さず、祈り始めました。
そして、神を崇めもせずに、最初の祈りは「 わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく。」と自らを崇めるかのように祈っています。
二番目の祈りは、「この徴税人のような者でもないと、徴税人のように律法を守らないものでもない」と、徴税人を憐れむでもなく、徴税人を執り成すこともしません。
そして、三番目の祈りで「罪人でない自分であることを感謝します。」と、徴税人を罪人として裁いています。
ルカ 6:37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
この事は、神様に感謝しているようですが、徴税人を罪人として、決めつけ、区別し、憐れむことも無く、赦すことも、神様に執り成すこともしていません。罪人と裁く祈りであるため、声を出して祈ることができません。もし、徴税人の律法に従えない行為を認めて、徴税人への憐れみを主に祈り、とりなしの祈りを主に捧げるなら、大きな声で祈れたと思います。
『18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
そして、最後の祈りは、ファリサイ派の人の行為を
ルカ 11:42 それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷(ハッカ)や芸香(ウンコウ)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。
詩 101:5 隠れて友をそしる者を滅ぼし/傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。
イエス様の語られた2千年前は、ユダヤの会堂では、詩篇や律法の書が朗読されていたようなので、詩篇101篇の5節もよく知っていた聖句であったのだろうと思います。当時のイエス様を求めてくる人たちや、ファリサイ派の人たちには、「傲慢」な人の祈りが、いかに罪深いものであるかを理解していたと思います。
ルカ11:42「・・・正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。・・・」から、ファリサイ派の人の祈りの中に、神の恵み、愛への感謝はなく、隣人(徴税人)を憐れむような愛もない祈りです。
被造物を作られた、その被造物を愛する神様への祈りとは程遠い祈りと思われます。自分は、この徴税人のような者でもないと隣人を「そしり」、区別しています。隣人を憐れむことも、執り成しを祈ることもしないわけです。
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
当時のユダヤの人たちの中で、伝統的なユダヤ教の慣例(食物規定(不浄忌避の規定等)を厳格に守らなくなった人たちをこの罪人と呼んでいたようです。
そして、徴税人の祈りの中心は『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』。神様を創り主と信じ、律法を守ろうとしても守り切れないという自分。そして罪人である事を知りつつも、尚、主である神に憐れみを願っています。
詩篇123編、 この詩篇は、徴税人の祈りの気持ちが痛いほどよくわかるように記されています。
【口語訳】詩123:1 天に座しておられる者よ、わたしはあなたにむかって目をあげます。 123:2 見よ、しもべがその主人の手に目をそそぎ、はしためがその主婦の手に目をそそぐように、われらはわれらの神、主に目をそそいで、われらをあわれまれるのを待ちます。 123:3 主よ、われらをあわれんでください。われらをあわれんでください。われらに侮りが満ちあふれています。 123篇4節「思い煩いのない者のあざけりと、高ぶる者の侮りとは、われらの魂に満ちあふれています。」
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、「123:2見よ、しもべがその主人の手に目をそそぎ、はしためがその主婦の手に目をそそぐように、・・・」
主のいる天に目を上げることができず、はしためがその主婦の手に目をそそぐように、主の憐れみを待ちつづけているわけです。
そして、徴税人は18:13・・・略・・・『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と祈りました。
詩篇123:3 主よ、われらをあわれんでください。われらをあわれんでください。われらに侮りが満ちあふれています。
罪人として侮られていることに満ちあふれています。
123:4 思い煩いのない者のあざけりと、高ぶる者の侮りとは、われらの魂に満ちあふれています。
罪人に対する、思い煩いのない:自身に満ちている、ファリサイ派のような傲慢な人々のあざけりと、高ぶる者の侮りとは、罪人の魂の中にに満ちあふれています。
神を信じ、愛しているが、律法を守れないために、罪人として、あざけられ、侮られ、さげすまれている罪人だから、18:13 ・・・略・・・徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と、祈った切実な思いが伝わってきます。
そのような徴税人の人たちの祈りにこたえて、御子イエス・キリストが来られたのです。
イエスはこれらの罪人を招いて悔い改めさせるために来られた。と、ルカによる福音書5章32節に記されています。
ルカ 5:32「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
18:14「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
徴税人の祈りは、神を愛している事、隣人を愛している事を認められ。義とされて永遠の命を与えられます。
今日、8月15日は、終戦記念日とか、敗戦記念日といわれています。
私は1949年生まれですので、戦争は体験していません。しかし、神学生になる前までの19年間ケアマネージャーとして高齢者のお世話をしてきた中で、一人の方ですが、広島の方が居らして、被爆者健康手帳をお持ちの方が居ました、その方を担当させていただいたのは、6~7年くらい前だと思います。
はじめは、被爆者である事を知らずに担当していて、介護保険で言う、要支援2という、杖を使って屋内を移動できて、介護を必要としていない方でしたが、貧血のため輸血を2年間ほど継続していました。ディサービスを利用していましたが、徐々に脚力が低下し、歩行器から車椅子の状態になり、訪問看護を利用するようになって、被爆者健康手帳を持っていることが分かりました。
歩けるときから、パーキンソン症状に似ていたので、パーキンソン病を疑っていましたが、パーキンソン症候群の診断名もつかずにいましたので、被爆者である事で原爆症の一種であろうことが想像されました。
その方は、今年の春、ご寿命を全うされました、彼にとっての戦争は1945年には終わっていなかったのです。今年、2021年の春までの76年間、原爆による後遺症と戦っていました。そして、私を含め、ヘルパーさんや訪問看護師、訪問リハビリのスタッフも、そしてDrも、今思うと、彼と一緒に戦った戦友だったわけです。
今振り返ると、一緒に戦っているという、意識はあまり抱けませんでした、それは病名をが不明瞭で、そのことを曖昧にされていたと思います。私自身、ケアマネジャーとしてのかかわりで、いうなれば、ケアマネジャーという制服というか鎧を着けて関わっていて、その方の苦しさ、辛さを共に担う隣人を愛するキリスト者としてのかかわりには、程遠い者であったことを深く反省してします。