2021年8月22日
ローマの信徒への手紙 8:18-25
「この先にある希望」
ローマの信徒たちに宛てたこの手紙を、パウロがどのような思いを持って書いたのかということについて、ちょうど一か月前に少し述べました。
イスパニア、今のスペインで宣教することを希望していたパウロは、伝道の足掛かりとなり得る教会をローマに建てることを願っていました。
ローマの教会が自分にとっても、また自分と志を同じくする者にとっても根拠地となることができるように、ローマの教会の信仰の基礎をしっかりと固めることが必要であると考えたパウロは、彼の神学をこの手紙の中で詳らかに論じています。第8章においては、人間の罪と、そこからの解放について論じています。
罪の力は極めて大きく、人間は自分の力では罪の力から脱出することができません。罪とは何でしょうか。ここで言う罪とは、法が禁じている行為という意味での罪や道義的な罪ではありません。これらを犯さないようにすることは意志によって可能です。パウロが論じている罪とは、人間の霊を捕らえ、苦しめるものです。
パウロが扱おうとしている罪とは、神さまから離れていること、神さまの御心から離れていること、あるいは愛から離れていることを言います。
律法は、神さまの御心に沿う生き方がどのようなものであるのかということを教えています。しかし、律法は同時にもう一つのことを明らかにしました。それは、人間はどこかで神さまの御心にかなわないということです。全ての時において、全ての人、全ての事柄を愛したい、愛を全うしたいと願っては居ても、それが出来ないということ、全てを愛するということが私たちには出来ないという事実を私たちに突き付けるのです。
このことを知った時、私たちは絶望します。このように生きよと私たちに命じている律法に適わぬということは、私たちは神さまの御心に適わぬ者であるということになってしまいます。つまり神さまの愛の内に生きる資格を持たないということになってしまいます。
これはどうしようも無い事なのです。私たち人間が限界を持つ者として作られている以上、どんなに強く願ったところで律法の定める愛を全うすること、律法の言うところの愛の内に生きることは人間には出来ないのです。
愛することが出来ない状態、また愛の内に生きる事が出来ない状態を罪と言います。また罪とは、神さまと私たちとを隔てる溝でもあります。
では私たちは絶望を抱いたまま生きなければならないのでしょうか。この限界を突破させ、神さまとの間にある溝を渡らせるために地上に来られた方こそ、キリスト・イエスです。イエスさまの故に私たちは神さまの招きに応じて愛の内に生きる事ができるのです。神さまから離れている状態、罪の状態から解放されて神さまの愛の内に生きる資格を得たのです。
神の御子、イエスさまが仲立ちをして下さった故に、私たちはイエスさまが神さまを父と呼ぶように私たちも神さまを父と呼ぶことができるようになったのです。教会とは、そのようにして招かれた人々の群れです。一人の方を父と呼ぶから、私たちは姉妹であり兄弟なのです。私たちは神さまによって招かれて、それに応えて共に愛の内に生きる人々なのです。
律法は結果として「自分は愛されるべき存在ではないのではないだろうか、神さまの愛の内に生きられない者なのではないか」という疑念を生じさせ、これまで私たちを苦しめていましたが、イエスさまによってこの苦しみは取り除けられました。代わって、イエスさまと共に苦しみを味わうことになります。それが、今日パウロが述べているところの「現在の苦しみ」です。
イエスさまの御苦しみとは、何のための苦しみだったでしょうか。ゴルゴタへの道のりでイエスさまが味わわれた御苦しみは、全ての人の罪に赦しを与えるための苦しみ、神さまとの関係を修復するための苦しみでした。神さまの限りない愛を人々に示し、また神さまの愛の内に人々を招き入れるための苦しみでした。
私たちがこれから味わうべき苦しみも同様です。どのようにすれば愛を受けられないでいる人々を迎え入れ、受け容れることができるようになるだろうかと悩み、またその人を迎え入れるために歩みを始めるという労苦が、私たちがこれからイエスさまと共に負う苦しみです。愛を告げ知らせたいという思いの事です。では、なぜこの思いが苦しみとなるのでしょうか。
愛を知らせるためには、それに先立って、その人を受け容れることが必要となります。ところが、このことが同時に私たちの心の中に葛藤を生む場合があるのです。受け容れるということが難しい時が、どうしてもあるのです。
時々使われる言葉の中に「困った人」という言葉があります。これは、私たちにとって理解し難く、また受け容れることの難しい人を指して使われる言葉です。私たちはこの言葉の意味を半分しか知らないのではないかと思います。
多くの場合、私たちは「自分を困らせる人」という意味合いでこの言葉を使うのではないかと思いますが、誰かを「困った人」と言う時、困っているのはその人の周囲に居る人ではないのです。その人自身が困っているのです。自分自身を持て余し、扱いきれず苦しみ、困っているのです。
だからこそ、「困った人」を目の前にした時に、私たちはあることを思い起こす必要があります。それは私たちが神さまとの断絶を望んでいたわけではなかったのと同様に、私たちにとって赦し難い誰か、受け容れ難い誰か、理解し難い誰かもまた、望んで断絶の中に在ったり、愛を拒否したりしているわけではないということです。誰も望んで困っているわけではないのです。
私たちが神さまとの間にある溝を乗り越えるのに苦しみ、結局自力でこれを渡ることが出来なかったのと同様に、その人も溝を乗り越えられずに苦しんでいるのです。
私たちは例外なく、多かれ少なかれ同じような苦しみを持っています。それでも私たちは受け容れて頂いています。イエスさまは私たちを受け容れ、招いて下さいました。私たちも神さまの御目からご覧になれば「困った子ども」ですが、イエスさまの故に神さまは私たちを受け容れて下さっています。
であるならば、私たちが受け容れられたということが、全ての「困った人」にとって希望となるはずですし、実はその人を受け容れるということが、私たちにとっても希望になります。
この群れは誰をも拒絶しない、ここには誰にとっても居場所がある。このことが、その人にとっても、私たちにとっても、また私たちがこれから出会うであろう人々にとっても希望になるのです。
今までは、居場所が無くて苦しんでいました。自分を受け容れることが出来なくて苦しんでいました。しかし、これからは全ての人を受け容れるための苦しみを、私たちはイエスさまと共に受けるのです。この苦しみは私たちを活かします。この苦しみの向こうに私たちは希望を見出します。
この苦しみを耐え忍ぶということは、悪いことではありません。私たちにはいつもイエスさまが一緒なのですから。そして、みんなが一緒なのですから。