聖霊降臨節第15主日礼拝説教

2021年8月29日

コリントの信徒への手紙Ⅰ 15:35-52

「ラッパが鳴る時」

私たちの信仰を特徴づけている考え方の一つに、復活への信仰が挙げられます。どのような宗教や信仰であっても、死とその後に何が待ち受けているのかということへの関心があります。「死んだらそれでおしまい、消えて無くなる」と説く宗教を、少なくとも私は知りません。ギリシャ神話にしても北欧神話にしても、あるいはエジプト神話や神道にしても、多少なりとも死後の世界について描く部分が存在しています。

強いて申し上げますならば、仏教の中には、元来仏教は死後の世界を想定していないという考え方があるようですが、私たちが一般的に見聞きする仏教の考え方では、例えば極楽浄土に入るとか、六道と呼ばれる世界に生まれ変わって輪廻するという考え方の方が主流であると思います。

それらの信仰における「死後の世界観」には、人間は生前の行いの是非によって死後の世界での過ごし方が変わるという共通点があります。良い行いをした者は快適な場所に行くことになるけれども、悪い行いをした者は苦痛が与えられるというような考え方です。

この考え方は人の倫理観を高めるという機能を果たしているわけですが、私などは自分の行いに自信を持てませんので、絶望感しか得る事ができません。それでも積極的に悪い生き方をしたいとは思いませんが、中には「どうせならば、悪いことをしてでもこの世で良い思いだけをしてやろう。」と、悪事に走る人が現れないとも限りません。

強迫観念によって人間を幸福とか平安、平和と呼ばれる状態に導くことはできないということを、かえって証明してしまっているように思います。

私たちの信仰のルーツとなったユダヤ教においては、死後の事柄についてどのように考えているでしょうか。

実は、ユダヤ教の正典である、私たちが旧約聖書と呼んでいる書物には死後の事はほとんど書かれていません。死への関心はともかくとして、死後の世界に関する関心を旧約聖書は持っていないのです。旧約聖書の関心は、いかにして生きるかという点に集約されているのです。

正しく生きる者には地上での生涯において祝福が約束されているということが、古代のユダヤ教徒にとっての希望であったわけですが、捕囚から解き放たれたユダヤ人たちはその希望に疑問を持ち始めました。

バビロニアから帰った神殿を再建し、今度こそ神の御心に適う生き方をしようと努力し続けたユダヤ人たちでしたが、状況は一向に良くなりません。常に大国の圧力を受け、虐げられています。正しく生きようと努力しても、それが報いられないのです。そこで彼らの一部に、死後に希望を持ちこそうという考え方をする人たちが現れました。その人たちが持っていたのが、復活信仰です。

イエスさまの時代には、サドカイ派については明確に「復活を信じていない」と記されていますが、ファリサイ派の人々は復活信仰を持っていたと考えられています。ヨハネによる福音書には、ラザロが死んだ時にマルタが『終わりの日の復活の時に復活することは存じております』と言ったと記されていますが、これは庶民の中には復活信仰があったということを示しています。この時代、庶民の間にあって主流であったのはファリサイ派の教えでしたので、これをもってファリサイ派が復活を信じていたと言って良いと考えます。

イエスさまも復活について何度か言及されました。そのほとんどがご自身の御復活についてなのですが、ヨハネにおいては例えば6章には「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」ですとか、「わたしはその人を終わりの日に復活させる。」、あるいは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」などのように、イエスさまを信じる者が永遠の命を与えられ、復活させられるということを仰っています。

パウロはコリントの信徒へ宛てて書いた手紙の中で、この復活信仰について書いていますが、今日読まれた箇所は正に信仰者の復活に関する記述です。

復活信仰は、おそらく私たちにとっても理解の難しい信仰であると思いますが、この手紙を読んだ古代ギリシャ世界の人々にとっても理解し難い信仰であったことでしょう。中には疑問を言葉に出してぶつけて来る人も居たようです。その疑問は、「復活というが、今生きているこの体と同じ体を持って生き返るという意味なのか」という疑問でした。

この質問に対してパウロは種を例に用いて説明を試みています。

花が咲いて萎み、しばらくすると実を結びます。この実の中に種ができますが、この種が地面に落ちる所からパウロは説き始めます。

地面に落ちた種は土の中で芽を出して新しい命の営みを始めます。パウロは種が土の中にある状態を、人間が土の中に埋葬されることと関連付けて論じているわけですが、種は土の中に入ってこそ芽を出す準備ができたと言えます。この芽こそ、死の後に与えられる新しい命、つまり復活の命です。この事を通して私たちは、死は新しい命を得るためのプロセスなのだということと、このプロセスを経て私たちは変化するのだということに気付きます。

一旦は土の中で眠り、しばらくすると目覚めるわけです。この時、種から萌え出した芽の姿は、種とは大きく異なります。種は硬くて乾燥していますが、芽は瑞々しくて柔らかく、この二つを比較すると、どちらかと言えばこの芽の方がより命を感じさせると思います。芽はこれからダイナミックに姿を変えていきます。硬くて乾いた種が変身してしまったかのように見えますが、姿こそ違っても同じ命です。そしてこの変身は発展でもあります。 

始めの人間であるアダムから私たちは土の体を受け継いでいます。今の日本では火葬がほとんどですので、なかなか実感することは難しいのですが、私たちの体が土によって造られているということは、私たちの体がいつか土に還ることから理解することができると思います。

あるいは、私たちは土の実りを食べることによって体を作っていることからの方が想像しやすいかもしれません。私たちが食べる物は、植物性の物にしても動物性の物にしても、元を質せばスタートは土です。無機質である土を植物やバクテリアなどが有機質に変え、それを私たちが食べているわけです。肉にしても、その植物を食べた動物を食べているわけですから、どちらもスタートは土です。私たちの体は土から出来ています。

私たちがアダムから土の体を受け継いでいるのと同時に、私たちは罪、つまり神さまからの乖離をも受け継いでいます。神さまの御心を離れてしまっている状態、「裸なので御前に立てません」と答えざるを得ない状態を私たちは受け継いでいるわけです。

その私たちを再び神さまと出会わせてくださった方こそ、パウロが「最後のアダム」と呼んでいるイエスさまです。肉の体を持ちつつも罪を持たれなかったイエスさまが、私たちの罪の贖いのために十字架について下さった、このことの故に私たちは神さまとの間に和解が赦され、御子の肉と血とに与ることによって私たちはキリストと一つにされ、罪の無い状態に戻され、再び神さまの御前に立つことが出来るようになりました。

その事を私たちに実感させるのが洗礼です。ここでは土ではなく水を通りますが、罪に対して死ぬことによって私たちは新しく生きる者とされ、キリストと共に生きる者になります。いわば、イエスさまの死と罪に対する死とによって私たちは再び楽園に迎え入れられる者となったのです。

これと同じように、肉体の死を通って私たちには新しい命が与えられます。この時、私たちの姿は種が芽に姿を変えるように大きく変わるかもしれません。それは私たちの想像を超えた姿なのかもしれません。しかし、それでも復活しているのは私たち自身です。例え姿が違ったとしても、同じ命なのです。

そしてその時、私たちはキリストが、イエスさまが全ての人を愛されたのと同じように、私たちもまた、全ての人を愛することができるようになっています。

「全ての人を愛せる、また全ての人に愛される」ということは、何事にも代えがたい喜びです。これこそが、天の国に迎え入れられるということです。もしもこれが待っていると知ったならば、私たちは何を代価として差し出そうともそれを得ようとしないでしょうか。

いつかラッパの音が鳴り響きます。その時には全ての者が、土の下に眠っている者も全てが起き上がり、永遠の命に、神さまの御支配の許に、天の御国に迎え入れられます。

これは、今の命の続きにある希望です。これが私たちに与えられている約束です。私たちもまた土の中で眠る時が来ますが、私たちには希望が与えられているのです。

ラッパの響は私たちを恐怖させる音ではありません。私たちに喜びを告げる音です。だからラッパが鳴る時を心待ちにしつつ、私たちは今を生きるのです。

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