聖霊降臨節第17主日礼拝説教

2021年9月12日

ヤコブの手紙 2:8-13

「自由を与える愛」

もしも道しるべが二つあり、一つの目的地への行き方として、それぞれの道しるべが違う道筋を示していたとしたら、それを見た人は大いに戸惑うことでしょう。私自身、20代の時に戸惑ったことがあります。工場に勤め始めたばかりのころのことでした。ある仕事に関して、年配の職人は「このようにすると良い」と教えてくれましたが、若い専務は「このようにせよ」と指示をする。

こちらを立てればあちらは立たず。こういうことが少なくなかったので、私はとても悩みました。年月が経ち、自分自身が経験と技術を身に着けてからは、あまり悩まなくなりました。自分の持っている知識の中で最善の方法を選択すれば済むようになったからです。

聖書の中にも、読む私たちを戸惑わせる箇所がいくつかあると思いますが、この「ヤコブの手紙」もその中の一つでしょう。

聖書が私たちに語り掛けることの中でも大切なことの一つに「人間は信仰によってのみ救われる」という、いわゆる「信仰義認」の教えがあります。特にパウロはこのことを強調していますが、これに対してヤコブの手紙では「行いが伴わない信仰は死んだもの」として、神さまの御言葉を行動に移して実践することを勧めています。

このヤコブの勧めは、一見するとパウロの「信仰義認」の教えと相反するかのように見えます。そのため、ルターはヤコブの手紙を「藁の書」と呼んで、あまり価値の無いものと考え、聖書の正典から外すべきではないかと考えていました。ヤコブの手紙の教えが、それを読む人を再び律法主義に追いやるのではないかと危惧したのです。

確かにヤコブは行いを求めました。特に、今日読まれた箇所では、「愛を行う」ということを「律法の実行」と表現していますから、ファリサイ的な雰囲気を感じるかもしれません。しかし、ルターは心配し過ぎたのではないかと私は考えています。

救いの基礎のところに各々の信仰があるというのは大前提として、その喜びの現れ、応答として、頂いた恵みを他の人と分かち合おうとする行いは、喜びをさらに増すと考えるからです。

何より、ヤコブが律法としてここで挙げている御言葉は、かつて律法学者がイエスさまに「もっとも大切な掟とはなんですか」と質問した時に、イエスさまが答えとして与えられた二つの御言葉の一つです。

その時、イエスさまは旧約聖書から二か所を引用なさいました。一つ目は、申命記6章4節の御言葉「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という箇所と、レビ記19章18節に記されている「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」という箇所でした。

レビ記19章を読み返して見ますと、「隣人を愛しなさい」という言葉は、幾つかの勧めと禁止を提示した上で出された結論であると理解できます。

自分の畑を持てない人のために、落穂、つまり収穫の一部を畑に残しておきなさい。隣人から奪い取るな。労働の対価は速やかに支払え。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いたりしてはならない。裁判に偏りがあってはならない。力ある者に阿るな。偽証をするな。兄弟を憎むな。

これらのことが命じられた後に、「隣人を愛しなさい」と結論付けているのです。

これは、一つには困っている人の事を自分とは関係の無いこととして切り捨てるなということであり、また自分より力のある人を特別扱いするなということでもあります。まして、困っている状況に付け込んで、その人を更に困らせたりするようなことは決してあってはならない。律法の説く隣人愛の究極は、すべての人に対して等しく親切であれということであり、私たちはそれを目指すのだとヤコブは述べています。

なぜ私たちは他者に対して親切にするのでしょうか。その動機の一つに、共感があると思います。困っている人を見かけた時、それを我が身に置き換えて考えてみると放っておくことができなくて、手を差し伸べる。この時、その人は困っている人の心の中に自分が入っています。その結果、何かをせずには居られなくなって、自分が提供できるものを差し出す。これが親切です。

時には、それは食べ物であるかもしれません。時には、それは相談に乗ることかもしれません。あるいは、一緒に居るだけかもしれませんが、その人のために労力や時間を用いるということが、その人に何かを差し出すということとなるでしょう。

ここで心を一つにすることが出来たならば、それがどんどん連なっていって、より大きな輪になるという希望を私たちに与えます。困っている人もそうでない人も輪の中に迎え入れることができるのではないかという希望を感じます。

これに対して人を隔てることからは希望を見出すことが出来ません。困っている人を遠ざけることも、力のある人を特別扱いすることも、また恨みを残すことも、そこにあるのは等しく隔てです。他の事でどれほど優れた功績を残したとしても、人との間に隔てを設けてしまったならば、全てが台無しになってしまうとまで述べています。

その人の置かれた状態に我が身を置き換えて考え、「何とかしてあげたい」と望むことから全ては始まるのです。その望みを行動に移す段になって、何かを差し出す必要があることが分かるかもしれません。ためらわれるかもしれませんが、それは決して損失ではありません。その人を助けられたという果実に対する対価として、引き合わないものではないはずです。

今日は創世記45章も読まれました。兄弟たちに売り飛ばされたヨセフは、エジプトで大いに出世しました。宰相にまでなったヨセフの前に兄たちが現れて、飢饉で食べる物が無いから助けて欲しいと言います。兄たちは自分たちの目の前にいるエジプトの宰相がヨセフであるということに気付いていません。ヨセフな兄弟たちを罠に掛けて窮地に追い込み、末の弟ベニヤミンを奴隷として残すように命じます。

これはヨセフの報復だったのでしょうか。ヨセフの心の中には葛藤があったのだと思います。家族が困っているのだから助けたい。でも、昔のことが蘇る。わだかまりを乗り越えるためには、どうしてもこういう無理難題を押し付ける必要がヨセフにはあったのだと思います。

追い込まれた兄ユダは、ベニヤミンに代わって自分が奴隷として残るから弟たちを帰してやって欲しいと嘆願します。この姿の向こう側にヨセフが見たのは、父が今でも自分を愛しているということと、その事を兄弟たちも知っているということでした。

父ヤコブのヨセフへの愛と、それゆえの悲しみの大きさを知っているからこそ、ユダは末の弟ベニヤミンに代わって自分を差し出そうとしています。かつて自分を奴隷として売ったユダが、自分を失い、今またベニヤミンを失おうとしている父の悲しみを思って自分を差し出そうとしている。

この姿にヨセフは心を打たれ、正体を明かし、全てのことを水に流して助力を約束しました。

この時、ヨセフは色々なものを投げ捨てただろうと思います。長年の間に積もったわだかまりを捨てるということは、とても大きなことです。怒りだけではなく、それまでの苦労、恨み事を捨てるということは、自分のプライドを捨てるということに等しい重さがあります。とても大きな壁を乗り越えなければ、これらのものを捨てることは出来ません。

心を打たれる、共感するということには、その壁を乗り越えさせる力があるのです。

このエピソードは創世記のクライマックスです。その後、ヤコブと息子たちはヨセフが約束したゴシェンの地に移住し、しばらくの間過ごした後、息を引き取り、先祖の列に加えられました。神さまの御手の中に帰って行ったのです。それは平和な最期でした。

家族と和解し、これを助け、父を安心させて平和の内に生涯を終えさせる。それはヨセフが捨てたものと比べて引き合わないものだったでしょうか。

誰かの心を我が物として、その人が必要としている何かを差し出すということは、決して割に合わないことではありません。仮に人間の目にそう映ったとしても、神さまが必ず帳尻を合わせてくださいます。差し出した以上の果実を与えてくださいます。だから今の私たちは自分が得ることよりも、与えることを考え始めるべきなのです。

どうすればこの人の利益になるだろうか。どうすればこの人の困難を減らすことができるだろうか。その事を考え、実行に移すべきなのです。

ヤコブの述べている「行い」とは、律法主義への回帰を意味しているのではありません。愛の実践を勧めているのです。それは、大まかにでも聖書の使信、聖書が伝えようとしていること、愛を理解していたならば、自ずと導き出せる解釈であり、迷うことがあったとしても最終的に至ることが出来る答えです。

ここに秦野教会があります。秦野教会がこれからもミッションを果たすことに期待されているから、この地に建てられているのです。神さまからの期待に、秦野教会はどう応えれば良いのでしょうか。

ここに私たちが居ます。私たちはここで神さまから愛をいただき、期待されて送り出されます。神さまからの期待に、私たちはどう応えれば良いのでしょうか。

ここにあなたが居ます。あなたはここで神さまから愛をいただき、期待されて送り出されます。神さまからの期待に、あなたはどう応えますか。

一緒にそれを考え、実行に移しましょう。

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