聖霊降臨節第18主日礼拝説教

2021年9月19日

エフェソの信徒への手紙 5:1-5

「新たな掟、新たな喜び」

パウロは、「私たち人間が『この世を支配する者、空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪とを犯して歩んでいた。』」と、このエフェソの信徒への手紙における本論に入る際に述べています。ここでパウロは人間を誘惑する力の存在を意識しているわけです。

進んで6章ではこの力を「悪魔」と呼び、人格を持つ者として扱っています。力について論じたり考えたりするにあたり、それを観念的に捕らえて論じようとするよりは、仮にでも人格を持たせて論じた方が、私たちにとっても理解しやすくなります。

人間の心には様々な欲求や衝動が常に生じています。もしも私たちがこの欲求や衝動の完全な支配下にあったとしたならば、社会生活を送ることは困難になってしまうでしょう。何故ならば、私たちの欲求や衝動の中には他の人の安全や利益と衝突する物も含まれているからです。

そこで人間は、欲求や衝動の内でも、人間関係において問題になりそうな欲求や衝動については制御をするわけですが、全ての場合において制御ができているわけではありませんし、どれほど制御ができるかということについても人によって違いがあります。ある人は、制御の作業をほとんど表に出すことなく行うことが出来ますが、別のある人は七転八倒しながらなんとか制御をするということもあります。

悪魔がささやく時があるとすれば、その時私たち人間の耳に聞こえる言葉は「そのような努力をする必要は無い。欲求の通り、衝動に従って振舞えば良いのだ」というような内容なのではないかと思います。

満たされない欲求や、生じてしまった大きな衝動を制御したくでもできない。その時、人間の心の中に葛藤が生じます。今置かれている状況を否定したい、破壊してでも拒否したい、遠ざかりたい、無かったことにしたい。その葛藤が苦しくてたまらない。そのような時に人間は泣くのです。

神さまは私たちのそのような姿をご覧になって、たまらなく可哀そうに思われました。神の御子は、私たちのそのような姿をご覧になって、何とかして救いたいと願わずには居られなくなりました。

神の御子は地上に遣わされ、人間と同じ肉の体を得られました。地上においてイエスさまは方々を訪ね歩き、それぞれの場において苦しむ人、悲しむ人と出会われました。それらの場面においてイエスさまが第一になさったことは、悲しみや苦しみに寄り添うことでした。合理的な答えを与えるというようなやり方ではなく、まずその人を理解しようとなさいました。

そしてイエスさまは私たちのことも愛してくださっています。

私たちが神さまを愛するよりも先に神さまが私たちを愛してくださっています。私たちがイエスさまを愛するよりも先に、イエスさまが私たちを愛してくださっています。

パウロは教えています。「もしも、愛をいただいているということに気付いたならば、あなた方も神さまに倣いなさい。愛されるよりも先に愛しなさい。」

愛するとはどういうことですか。愛を行うとはどういうことですか。

「イエスさまが私たちにしてくださったように、あなたたちもするのだ。」

神さまは人間の心を良いものとして作られたのだと、私は思います。誰の心にも、本来あるべき心の在りように戻ろうとする力が備わっているのです。イエスさまは、私たちの心にあるその力、本来の姿に戻ろうとする力が自由に、充分に働くことが出来るように助けて下さるのです。

イエスさまが私たちにしてくださったように、私たちも人と出会い、その人の心の中に備わっている力が自由に働くことが出来るように、その人に寄り添うのです。

これは義務感から行われることではありません。優しくしていただいたから、わたしたちも人に優しくせずには居られないのです。感謝の気持ちが私たちの生き方を変えてしまうのです。

この変化をパウロは語呂合わせで語っています。「下品な冗談よりも感謝を表す方が良い」と述べています。ギリシャ語で「下品な冗談」は“μωρολογία”(モーロロギア)、“εὐτραπελία”(ユートラペリア)という言葉であるのに対して、感謝は“εὐχαριστία”(ユーカリスチア)という言葉です。ユートラペリアとユーカリスチア。この駄洒落が面白いのかどうかは私たちには分かりませんが、とても大切なことをここから読み取ることが出来ます。

ユートラペリアという単語は、聖書では「軽口」ですとか「卑猥な」「下品な」というニュアンスで用いられていますが、本来は「流暢さ」や「ユーモア」という意味の言葉です。

また、ユーカリスチアは「感謝」という意味の言葉ですが、後にキリスト教会においては「聖餐式」の事を指すようになりました。

つまりパウロは、「葛藤に苦しむ人に寄り添う時、必要なことは、『この程度のことは良くあることだ』と、問題や苦しみを矮小化することでもなければ、荒れた気持ちの動きを逸らすような一時しのぎの言葉でもないのだ」と述べているのです。

イエスさまが苦しむ人と同じテーブルに就かれたように、その人と出会い、悲しみや苦しみを理解できるように努めること、気持ちを共有できるように努めることが私たちにできる最大のことなのだと述べているのです。何か特別なことをする必要は無いのです。その人と一緒に居さえすれば、それで良いのです。

苦しむ人と共にある。それは義務感からではなく、感謝の気持ちとして、神さまへの応答として出てくる選択であり、行動なのです。

今日は十戒が読まれました。その前半は神さまと人との関係についての定めです。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

あなたはいかなる像も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。

あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

安息日を心に留め、これを聖別せよ。」

私はあなたを愛している。だからあなたを救い出した。私こそがあなたを愛しているのだということを忘れないでほしい。他の者に心を奪われないで欲しい。あなたを愛しているのは私だということを忘れないでほしい。私はあなたに愛をのみ注ぐのだ。だから主日ごとに私の言葉を聞いて欲しい。

「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

隣人に関して偽証してはならない。

隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

私の愛を知ったならば、あなた方も互いに愛し合って欲しい。愛する者同士が傷付け合ったり互いを裏切ったりすることをしないで欲しい。互いに誠実であって欲しい。

あなたに必要な物は全て私が与えるから、誰かを妬んだり奪い取ったりしないで欲しい。

十戒の言わんとしていることは、とても単純なのです。神さまの愛を知りなさい。神さまを愛しなさい。ともに荒れ野を旅する者として、愛された者同士、愛し合いなさい。

神さまの愛を知った時、私たちの心には新たな衝動が生まれます。神さまを愛したい、愛された者同士愛し合いたい、それが私たちの新しい生き方であり、願いです。

パウロはエフェソの信徒に宛てて書いた手紙の中で、私たちに新しい生き方を示しました。

私たちには自分の心を持て余してしまうことがあります。気持ちを制御できないことがあります。そんな時、思い出してください。イエスさまがあなたと共にあり、あなたを愛されています。

自分の心を持て余し、気持ちを制御できなくなって苦しんでいる人が居ます。そんな時、思い出してください。イエスさまがあなたと共に居て下さったように、私たちもその人と共に居るのです。その人の心が本来あるべき姿に戻れるまで、イエスさまがその人を連れ帰ってくださるまで、その人と共に居るのです。

みんなが一緒だから、岩がゴロゴロしている道だって平気です。神さまが行先を示してくださるから、不安なんて…本当はちょっぴりあるけれど、そんなのはすぐに晴れてしまいます。イエスさまが一緒に居て下さるから、私たちは安心して歩んで行けるのです。

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