2021年9月26日
テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 3:6-13
「主の働き人」
パウロが生きていた時代にあっては、キリスト者であるということは大きなリスクでした。それは、例えばユダヤ人たちから「あれらは正統な教えから逸脱した者たちだ」とみなされて虐げられる恐れがあるからであり、またギリシャ・ローマの文化圏の人たちからは「あれらは我々と価値観を共にしない人々だ」と排除される恐れがあるからでした。
それでもなお、キリストの教えに惹かれ、それを固く守り続けた人々が居たのは何故でしょうか。キリスト者であること以前に、生きることその物が不安に満ちており、キリストの教えに、イエスさまの御言葉に人々を支える力があったからです。
近現代に至るまで、死は人間の生活のすぐそばにありました。今の私たちにとっては、信じがたいほどにあっけなく人間は死んでしまいました。飢えは常に身近にありました。病や怪我に対抗する手段は極めて限られていました。疑いの目を向けられた時、その人を人々の憎悪や嫌悪から守る力は極めて小さく、今の私たちにとってはほんの些細なことと思われるような理由で人間の命が奪われていました。
だから「不安な時にこそ、私が一緒に居るのだ。恐れる人と共に私は在る。」というイエスさまの御言葉は、強い光を放っていたのです。
そして、不安の中を生きていた人々にとっての願いは、再び来られたもうイエスさまをお迎えすることでした。イエスさまが再び来られて私たちを救ってくださる。その時にはあらゆる苦しみ、不安が拭い去られる。キリストの再臨への待望が彼らを支えていました。
同じ時、この不安に対してキリスト者とは逆の反応を示す人々も居ました。これらの人々内のある者は世を儚み、この世に生きる甲斐など無いのだからと投げやりな姿勢で、生と向き合うことを拒否するような考えや行いをしていました。また、偽りの言葉、不安を掻き立てるような言葉で人々の心を乱すような人々も居ました。
パウロはテサロニケの教会に集まる人々に宛てて、投げやりになってしまった人々の言葉や姿に惑わされることの無いように、誠実に日々を送りなさいと、戒めのメッセージを書きました。それが、このテサロニケのへの手紙です。
様々なデマが、まるで真実であるかのように世の中に飛び交う時、それらの一部は教会にも入り込みます。教会も社会の中、人の世の中に立っているから、それは当然です。キリストを信じる者の中にも、そのデマに心を囚われてしまう人が出る可能性は当然にあります。
ここでパウロは「わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。」と命じています。一見すると、逸脱してしまった人を除け者にせよと書いているように見えますが、これは「あなた方までも冷静さを失わないように、適切な距離を置きなさい」と命じていると理解すべきでしょう。
その時、その人の状態とは熱病に侵されているようなものなのです。その人の本質までもが捻じ曲げられてしまったわけではないのです。だから、その人が冷静さを取り戻し、元の生活に戻る時が来るまでは適切な距離を置く必要があるのです。
続けてパウロは、かつてテサロニケに居た頃にパウロ達がどのような生活をしていたかを思い出し、それを手本にすることを勧めています。
パウロはテサロニケにおいて伝道する際、自分の生活に必要な物は自分で働いて得ていました。コリントで伝道していた時も同じでした。テントを作って生活費を稼ぎながら、イエスさまの御言葉を宣べ伝えていました。これは大変なことであると思います。
現代の牧師の多くは教会員によって生活を支えられていますので、牧師は牧会と伝道、御言葉の取次ぎに専念することができます。しかし中には、パウロと同じように社会で働きながら教会にお仕えする牧師も居ます。私の先輩の内のある人はバスの運転手をしています。建築現場で働いている人も居れば、保険の相談窓口で働く人もいます。肉体的にも精神的にも厳しい生活となってしまいます。私には到底真似ができません。
パウロも同じように、働きながら伝道をしていました。その時のパウロの姿を思い出して手本にしなさいと進めるのです。
このように、良い手本を提示することが出来る人というのは素晴らしいと思います。自分の身を省みた時に、こうであってはならないという手本ならばいくらでも紹介できるのですが、いい手本にはとてもなれないと思うからです。
それでも、悪い手本から学ぶことも多くあるのです。
昨日、神奈川教区の宣教部委員会が主催した「宣教を語る集い」に参加しました。テーマは「コロナ後の宣教について」ということでしたが、実際のところどの参加者も今の事に精一杯でコロナ後のことにまでは目が向いていないというような様子でした。
私は主催者側である宣教部委員ですので、事前の準備として昨年の夏に宣教部委員会が教区の各教会に対して依頼した、コロナ対応に関するアンケートの集計に目を通しておりました。そこからは、それぞれの教会が苦悩しつつ新型コロナウィルス感染症の流行に対応した様子を読み取ることが出来ましたが、その中でも私が関心を持ったのは、対応を定める際に何を基準、根拠とすれば良いのかということについての悩みでした。
最初の緊急事態宣言が神奈川県下に発出されたのが4月7日から5月14日までの間でしたが、この時多くの教会がそれまで守っていた礼拝の姿を大きく変更しました。ある教会は、礼拝堂における礼拝は牧師のみが守り、各家庭にあっては家庭礼拝を守ることとしたそうです。別の教会はインターネット礼拝を導入して、それをそれぞれの場で視聴することで御言葉の取次ぎをしたということでした。
多くの教会が礼拝堂に人を入れないようにしましたが、そのことの是非について、特に何を根拠に判断すれば良いのかについて悩んだのです。
資料には回答をした教会の判断基準も記されておりましたが、その中に「社会の要請を無視できない」というニュアンスの回答がありました。
それは事実としてそうだったのでしょう。社会の中にある教会としての実情だったのだと思います。しかし、教会が何らかの決断を下す際に、「社会の要請」を理由とすることには、とても大きな危険を伴います。何故ならば、歴史の中で私たち日本基督教団は、社会の要請に従って行うべきではないことを行った経験があるからです。
第二次大戦のさなか、帝国政府は全国の諸教会に対して戦争への協力を求めました。それは圧力であったわけですが、日本基督教団はそれに応答して戦争への協力をしました。「戦争状態にある社会からの要請に応じた」結果、私たちは戦争に、人の命を奪う行いに加担したわけです。このことは私たちにとって苦い記憶となって残っています。
もちろんコロナへの対応は人の命を守るための行動です。しかし、「社会からの要請に応じる」という事実を新たな前例として残してしまうと、今後もし社会が再び別の要請をしてきた時に、私たちはそれを拒否できなくなってしまう可能性が出来てしまう。それを避けるためにも「社会の要請」は私たちの決断の理由、判断基準としてはならないのです。私たちの決断の根拠は常に聖書にあるべきなのです。
しかし、すべての教会がここまで考えを進められるわけではありません。また、自分たちの判断基準に自信を持ち、それを守り続けることが出来るとも限りません。すべての教会が不安の中にあるのです。であればこそ、教団ないし教区には、それぞれの教会が判断を下す際によるべき根拠を明らかにしてもらいたい。そして、その根拠に拠る限り、教団、教区はあなた方を守ると約束してもらいたい。昨日の集会ではそのような要望がなされていました。
不安の中に立つ者に安心を与える。教団、教区は、そこに連なる教会に対して安心を与え、教会はそこに集う人々に安心を与える。それが教会のなすべき働きであり、その手本をイエスさまは今日読まれた福音の中に示してくださいました。
夜明けに雇われた者、9時に雇われた者、12時に雇われた者、3時に雇われた者、5時に雇われた者、それぞれに労働時間が違います。にもかかわらず与えられた賃金は同じでした。そのため、朝早くから働いていた人々は不満を漏らします。
これは私たちにも理解できる不満でしょう。私たちは賃金が労働に対して支払われるものであると考えているからです。しかし、このぶどう園の主人にとっては違いました。この主人の願いは、全ての人が安心して今日を終え、明日を迎えることだったのです。今日と明日への不安を、誰の心からも等しく拭い去ることが主人の願いだったのです。
広場に立っている人には不安があります。今日は仕事にありつくことができるのだろうか。稼ぎを持って帰ることができるのだろうかという不安です。時間が経てば経つほど、この不安は大きくなっていきます。夕方近くになると、諦めへと変わっていきます。まる一日の間、不安に苛まれ、諦めへと至ったその苦しみを何とか拭い去りたい。それが主人の願いだったのです。
主人は仕事を与え、なすべきことを教えることで、不安な気持ちで広場に佇む人に、その日の方向性を示しました。これによって雇われた人は安心して仕事に励むことができます。
今、私たちはいつ終わるとも知れない不安の中に置かれています。このような世の中だからこそ、私たちは確かな道を指し示すべきなのです。
全員が安心して日々の生活を送れるように働きかける。主の御言葉を取り次ぐ、それが教会の務めです。
働いている最中に不安になってしまう人も居るかもしれません。自分の選んだ道が正しかったのか、自信を持てなくなってしまうことがあるかもしれません。そんな時には、もう一度一緒に祈って、主の御言葉に答えを求めましょう。イエスさまはあなたが誠実であることをご存知です。あなたが道を選んだ理由が、あなたの誠実さのゆえであることをご存知です。だから迷った時には、もう一度祈りましょう。御言葉を求めましょう。
私たちはともに働く者です。だから、迷った時にも、不安な時にも、ともに祈りましょう。