2022年1月16日
マルコによる福音書 1:14-20
「人間をとる漁師に」
イエスさまが宣べ伝えられた良き知らせ、福音は、私たちの心にある蟠りや絡みついてしまっている思いを解きます。それによって、私たちは自分を赦し、他者との間にも和解を実現することができます。神の国の完成とは、全ての人が赦し合い、和解できる日が来ると言うことを意味していると私は信じています。時が満ちれば、和解は実現するのです。イエスさまは今日、ガリラヤで神の国を語り始められました。
イエスさまがお生まれになった当時、ユダヤの人々の心はすさんでいました。大国に挟まれ、小さな国が自力で独立を保てなかったこの時代にあって、ヘロデが開いた王朝はローマの力を借りることで何とか国としての体制を維持しようと努めていました。
しかし、ユダヤの人々とローマとの相性は極めて悪いものでした。ローマにとっては合理性こそが正しい答えに至らせる手段であり、規則や法は共通言語のようなものでした。他方、ユダヤの人々にとって律法、つまり聖書に記された神の御言葉は他に代えがたい生活の基準であり、あらゆる規則や法の上位に存在するものでした。
ローマが支配した地域には、様々な宗教的背景を持った民族が居ましたが、ローマの法を守れば信仰の自由は保障されていたので、宗教が問題となることはあまりありませんでした。
ところが、ユダヤの人々はローマの法を蔑ろにする傾向があり、不満が生じると頻繁に暴動や反乱、つまり暴力的な手段による反抗をしていたので、ローマにとってユダヤは理解しがたく、統治の難しい人々でした。
ローマにしてみれば、なぜそんなことでユダヤが怒るのかが分からないのです。ユダヤはユダヤで、イヤなことがあると、それを暴力でしか表現しないのです。これでは互いに理解することなど不可能です。ユダヤの国には不満が蓄積されていました。
不満の原因は国の外にだけあったわけではありません。いわゆる指導者層も、自分勝手な律法の解釈と実践を人々に強いていました。また、富める者はひたすら富を蓄積し、貧しい者には豊かになる機会すら無い、そのような状況が続いていたので、人々の心は疲れ切っていました。
その時、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、人々に訴えます。「自らを省み、悔い改めよ。神の怒りを恐れよ。」
神さまとの関係を回復せよ。そのためには自分の罪深さを知り、それを悔いること。そして、生き方を改めることが必要なのだと訴えたのです。
これは、ユダヤの人々にとって新鮮で、しかも分かりやすく正しい訴えでした。多くの人々が、ヨハネの教えと彼の施す洗礼を求めて荒れ野に集まりました。
ヨハネは歯に衣着せぬ言葉を次々に発します。その中には、ヘロデの結婚について不正を告発する言葉もありました。これを理由として、ヘロデは洗礼者ヨハネを逮捕します。福音書記者マルコはヨハネの逮捕を、イエスさまが宣教を始められる直前に、それも時が満ちたことを表す出来事として書き記していますが、これは時代の移り変わりを示しています。
洗礼者ヨハネが舞台を去り、代わりにイエスさまがスポットライトをお受けになった。それはつまり、過去の自分を責める時代が終わり、愛されていること、赦されていることを信じる時代が始まったのだということを示しています。
激しく厳しい北風の時代は去り、暖かなお日様の光の時代が到来したのです。
イエスさまは新たな時代の到来をガリラヤで語り始められました。そこに住んでいたのは、貧しい人々です。生活の苦しみの中で、正しく生きることが困難で、そのことで自分を責めながら生きていた人々に対してイエスさまは、自分を責めなくて良いのだと語り掛けられたのです。神さまに立ち返るとは、自分を責めることではないのだ。神さまの愛を感じながら生きるということなのだ、それが悔い改めるということなのだと教えられたのです。
ガリラヤで生きていた人たちにとっては、イエスさまが自分の所に来て、語ってくださる瞬間こそが、「時が満ちた」瞬間でした。
これらの人々の中に、二組の兄弟が居ました。シモンとアンデレの兄弟と、ヤコブとヨハネの兄弟です。彼らもまた、救いを求める人々の内に居ました。正しく生きられない自分について悩み、苦しんでいました。
イエスさまは、そんな彼らを召し出されました。イエスさまは彼らの抱えている過去や厳しい現実を軽く見て、「今までの生き方なんてどうでもいいから従え」というような姿勢で臨まれたわけではありません。むしろ、彼らの過去と現在の重さを大切なこととして理解され、赦し、重荷を取り除け、その上で彼らを召し出されたのです。
「今まで、確かに辛かった、苦しかっただろう。消化できないような思いが積み重なっているだろう。自分でも自分を赦すことができないかもしれない。でも、それらは全て、これからのために必要な準備だったのだ。
私はあなたを赦す。これと同じように、私はこれから行く先々で出会う人々を赦して回る。その旅についてきなさい。これまで魚を集めていたのと同じように、多くの人々を集めなさい。赦しを告げ知らせるのだ。」
イエスさまの旅は、人々の重荷を取り除ける旅でした。苦しんだ過去と決別し、愛を受けて生きる新たな日々へと歩みを進めることを説いて回られました。それは過去を無視する、捨て去るということではありません。イエスさまが勧めておられるのは、過去との和解です。過去の自分を理解し、赦すことです。
イエスさまの旅は、すさんだ心を癒し、争いのあるところに和解を齎す旅でした。今、イエスさまは、その旅に従えと仰います。シモンたちにだけでなく、私たちに仰っているのです。それを断りますか? 主の召し出しを断りますか?
私たちはシモンとアンデレのように、すぐに網を捨てて従うことはできないかもしれません。過去との和解は、ただちにできるようなことではないからです。しかし、その時は一瞬です。ほんの一瞬の間に私たちは作り変えられるのです。自分で自分を作り変えるのではありません。大きな力が注がれて、私たちは作り変えられるのです。その瞬間に、私たちは過去と和解できてしまうのです。
私が育った家庭は、平和という言葉からは程遠いものでした。幼少期の体験は、その子どもに長く影響を与え続けます。私にとって、その影響は結婚に現れていたと考えています。交際する人が居ても、いざとなると怖い。父、この場合は実父ですが、父と同じことをしてしまうのではないかと不安になるのです。
三十半ばにして、やっと私は父とは違うのだということ、同じことはしないと確信が持てるようになりました。その切っ掛けは、父が私の給食費を使い込んでいたという事実を知ったことです。その時、私は「私は子どもの食い物を取り上げたりしない。子どもには絶対に食べさせる。」と直感し、父との違いをハッキリと知りました。
更に父が亡くなったという知らせを受けて父の住まいの片付けをしに行ったのですが、そこで遺品を片付けている時に、父が書き残していたメモなどから、父の内面に触れることができたように思います。父も自分を持て余し、思いを消化できなくて苦しかったのです。それをどう表現して良いのか分からず、周囲の人々にとっては受け入れがたい言動となっていたのです。
過去は消せません。過去は消えませんが、過去との和解は可能です。それは他者と自分との間でだけ起こることではありません。過去の自分との関係においても和解は可能です。主イエスは私たちを和解へと導いてくださいます。そして、私たちを召し出し、命ぜられます。「人々を和解に導け。和解へと至らせるために、人々を私の許に集めよ」と。
自分との和解と働きへの召し出しとは、必ずしも順番に起きるわけではありません。イエスさまと共に歩む中で、時に和解が進み、また時に働きが与えられるというように、その時に応じて少しずつ進むということもあります。しかしその時、絡まった糸は解けます。スルリと解けます。まずこのぐちゃぐちゃが解け、すると今度はこっちのぐちゃぐちゃが解けというように。
その時は思いがけずおとずれ、それは一瞬の出来事です。この瞬間に、主は私たちの苦しみや悔いを証し、私たちが語ることのできる、神さまからのメッセージへと変えてくださるのです。
二組の兄弟、漁師の兄弟が召し出されました。あなたたちも召し出されています。あなたを呼ぶ主の御声に、どうお答えしましょう。あなたを必要とされるその瞬間を見逃さないようにするためにはどうしましょう。
あなたが愛されているということ、赦されているということを常に信じるのです。それが時が満ちたことを教えます。
イエスさまの召し出しに応えて、この家から出掛けて行きましょう。