降誕節第2主日礼拝説教

2022年1月2日

ルカによる福音書 2:42-52

「御言葉は語られる」

新たな年を皆さんと迎えられたことを主に感謝いたします。

様々な節目を迎える時、人はそこにおいて儀式や儀礼を設定します。それは、その節目を迎えることが出来たことへの喜びの現れであったり、その節目の向こう側に歩みを進めるにあたっての心構えを作るためであったりします。

身近な所で申しますと、お七夜やお食い初め、七五三、成人式、還暦の祝いなどが、古来日本人にとっての節目の代表例であると言えます。日本のプロテスタント教会は土地の習慣に飲み込まれてしまうことを恐れて、それらを「新生児祝福」「幼児祝福」「成人祝福」「高齢者祝福」と名前を変えてしまいましたが、根のところにある気持ちは同じです。

ユダヤ教にもやはり節目における儀礼がありました。今日、イエスさまが神殿に詣でられたのも、その一つです。

ユダヤの男の子は、ごく小さな時期から律法を学びます。家庭内でも繰り返し教えますし、ベート・ハッセーフェルという学校にも通います。概ね12歳になると旧約聖書を全て暗唱できるようになり、子どもの時期を終えて青年期に入ったと見做されました。これを境にして、「律法の子」として、断食を始めとする律法を守る義務が生じます。そこでイエスさまも過越しの祭りをエルサレムの神殿で守ることになりました。

過越しの祭りは、イスラエルの民がエジプトを脱出したことを祝う祭りで、1週間にわたって守られます。イエスさまも7日間をエルサレムで過ごされました。

ナザレの村の人々が一団となってエルサレムに滞在します。小さな村と違い、都は様々な人や物で溢れています。神殿で執り行われる諸々の儀式も、特にそれに初めて参加するイエスさまにとっては興味深いものだったでしょう。ヨセフとマリアには毎年のことではありますが、それでも滞在中は興奮の内にあっただろうことは想像に難くありません。

祭りの期間が終わり、村へ帰ることになりました。大人たちは興奮の余韻の中を歩きます。この当時の巡礼団は、女性のグループが男性のグループよりも先に出発するのがならわしとなっていました。歩く速さが違うからです。分かれて進む二つのグループは夜営地点で合流します。

それぞれのグループはきっと互いに女性は女性同士、男性は男性同士で「今年はああだったこうだった」などと話しに夢中になりながら歩いていたのでしょう。そのため、イエスさまが一行の中に居られないということに気付きませんでした。夜営地点で家族が集まって初めて、このことに気付きます。

驚いた両親は、友達の家族の中に紛れ込んでいるのではないかと、心当たりの家族を回ってみますが、どこにもイエスさまは居られません。仕方なく、マリアとヨセフは巡礼団と別れてエルサレムに引き返します。

今と違って携帯電話も無ければ写真もありません。街道を歩く巡礼団に出会う度に、そこに我が子が混ざっていないか確かめ、人を捕まえてはイエスさまの体格や顔立ちを言って心当たりが無いかを質問しながら歩きます。丸一日かけてエルサレムに着きました。その日は既に夜になっていたので、都の中を探すのは翌日です。

祭りの最中に訪れた場所を片っ端から回ります。すると、祭りは既に終わったというのに、神殿では学者たちが集まって何か話をしています。人の輪の中を覗くと、その中心に座って居たのは我が子でした。

イエスさまは学者たちの話を熱心に聞き、疑問に思うことがあると質問をなさいました。

今でもそうですが、ユダヤの教育の基礎は律法を覚えることにあります。12歳で旧約聖書を全て暗唱できるようになったとは言え、それらを体系的に理解できるようになるには、更なる学習と考察が必要になります。基礎が出来上がるのが12歳であると考えて良いでしょう。イエスさまは、その基礎に立って、学者たちに質問なさったのです。

想像でしかありませんが、イエスさまは日々律法を学びながらも「なぜこうなっているのだろう」と疑問を持ち、考えながら学ばれていたのではないでしょうか。

村に居る教師役の大人では回答を得られなかった質問を、都の学者たちに投げかけます。成人したと看做されてはいますが、イエスさまはまだ12歳です。神学者たちが専門的な言葉で返事をしたとは考えられません。目の前の子どもに分かりやすいように噛み砕いて説明したに違いありません。すると、この子どもはそれを正確に理解し、子どもなりの言葉で解釈を述べます。すると、その内容が的を射たものばかりだったために、学者たちは大変驚きました。だから、イエスさまの周りに学者たちが集まってしまったのです。

我が子が居なくなったというだけでも驚いていたマリアとヨセフですが、これを見てさらに驚きました。マリアは慌てて人をかき分けて我が子の傍に行き、「どうして勝手に離れちゃったの、あなたのお父さんも私も心配して探し回ったのよ。」と叱ります。それは当然ですよね。

これに対するイエスさまのお答えは…。

「私が自分の父の家に居るのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

こんなことを我が子が言ったら、私なら激しく怒るところですが、イエスさまが言われたこの言葉には重大な意味があります。

新共同訳では省略してしまっていますが、マリアはここではヨセフを「あなたのお父さん」と言っていますが、それに対してイエスさまは神殿を御自身の父の家と仰っています。つまり、この言葉は「私は神の子である」という宣言です。

イエスさまは毎日聖書を読み、様々なことを考える中で、気付きも疑問も持たれたことでしょう。今こうして学者たちと会話をする中で、イエスさまは御自身が何者で、何のために遣わされたのかということを理解なさったのです。世の人々を罪の縄目から解き放ち、救うという、とても大きな使命を帯びて遣わされた神の御子であるということに気付かれたのです。

マリアとヨセフには、この言葉の意味が分かりません。ただ、イエスさまは御自分が何者なのかということを、この時に理解されました。しかし、それでもこの家族の一員であるということをやめませんでした。イエスさまの気付きは「この人たちとは違う」と言う思いではなく、「この人たちのために、全ての人のために」という思いへと繋がっていたのでしょう。

そしてイエスさまは、公生涯と呼ばれる宣教の御業を始められるまでの18年間を、家族を愛し、両親を愛して過ごされました。

イエスさまの説かれる愛は、決して難しい思考的操作をしなければ理解できない、実行できないというようなものではありません。分かりやすい、日常の中にある言葉でも充分に表現できるような易しさを持っています。

難しい言葉は、実は曲者で、本当に伝えたいことを包み隠してしまうところがあります。ドイツの某神学者の神学書なんて、読めば読むほどに何を言いたいのか分からなくなってしまいます。でも、神さまの愛、イエスさまの愛は、そんな複雑怪奇な物ではありません。ただただ、あなたが大事、みんなが大事。それだけなのです。本当の愛は、誰かを孤独にしたり、誰かを蔑ろにしたりすることはありません。

愛は、単純で良いのです。目の前の人を大事にしたい。それが愛なのです。

イエスさまは御自身の大切な節目の時にそれを私たちに教えてくださいました。今、私たちも節目の時に居ます。

2022年を、愛を行う年となるように、愛に満ちた年となるように

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