2022年1月9日
ルカによる福音書 2:42-52
「聖霊が鳩のように」
イエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりました。マルコによる福音書においては、この出来事から公生涯と呼ばれるイエスさまの救いの物語が始まります。
パブテスマとは、水に身を沈めることによって、それまでの罪を清めて新たな命を受けるという、いわば古い生き方と新たな生き方の境目のことです。神さまの御子であるイエスさまにとっては、別の意味合いがありました。
洗礼者ヨハネは荒れ野において人々に罪、つまり人が神さまの御心から離れてしまっていること、神さまの御心を行うことが出来ないということを自覚せよと人々に訴えていました。そして、罪を悔い改めるために洗礼を施していました。
私たちも礼拝の冒頭に罪の告白をいたします。そこでは、「あなたの戒めに背き、御旨に逆 らい、裁きにしか値しない者です。御言葉を悟らず、不信仰に傾き、自分の力では御心に適 うことができません。」と、私たちのありのままの姿を神さまに告白し、イエスさまを通して赦しを得られるように懇願しています。
この罪とは、私たちが生まれながらにして持っているもので、逆説的に申しますならば、これがあるからこそ人間だとも言えます。
神さまの御子であるイエスさまには罪は存在しません。では何のためにイエスさまはヨハネから洗礼をお受けになったのでしょうか。それは、私たちの罪をご自身のもの、御自身の問題として追われるためです。人を理解し、人と共に、私たちと共に歩むために、主は洗礼をお受けになったのです。
罪の重荷を共に担うこそが、実は神さまが御子に託されたことでした。
洗礼を境目にして、イエスさまの救いの物語が始まります。それは、人々と共に歩む、わたしたちの罪を共に担って歩まれるというイエスさまの決意の瞬間であり、また神さまの御心を行うという決意の瞬間でした。
その瞬間、天が裂けて霊が鳩のように下ります。天が裂けたこの時、神さまが直接的かつ決定的にこの世に介入されます。
神の霊は人に降ると、時には人間離れした大きな力を発揮させたり、あるいは神さまの御言葉を語らせたりします。例えばサムソンに降った時には大勢の敵を撃ち殺すほどの力を与え、またイザヤに降った時には神の怒りと救いとを語らせました。
イエスさまに降った神さまの霊は、鳩のような姿をしていました。鳩は神の性質を象っています。ノアの箱舟の時には、鳩は窓から放たれるとオリーブの葉を咥えて戻って来ました。これによってノアは地面が乾き始めているということを知りました。鳩は苦難の終わりを知らせる鳥なのです。
そして、鳩は神さまの御心が現実のものになるということをも象徴しています。であるならば、イエスさまがこれから語られる数々の御言葉と、行われる奇跡とを通して、私たちに苦難の終わりを告げ、御心が現実に行われるということを意味しています。
イエスさまは神の御子として神さまの御心を行われました。その究極の姿が、犠牲として自らを差し出された十字架の出来事です。これによって神さまと私たちの間にあった隔てが取り除かれました。今日、天が裂けたのと同じように、イエスさまが息を引き取られた瞬間に神殿の奥にあった幕が裂けました。
神さまと人との間にある隔てを象徴する幕が裂けたことによって、私たちには神さまの御元へと至る道が開かれました。全ての者は先立つイエスさまに導かれて神さまとの和解へと至ります。
私たち自身は何も差し出していないのに、神さまは私たちを赦してくださったのです。神さまは私たちには罪の責任を負わせず、御子に全てを負わせられ、御子はそれを拒否するどころか進んで全てを負って自らを犠牲として差し出されました。これによって私たちに赦しが与えられました。それは一方的な恵みです。
そのような重い役目を果たすべき者として、神さまは御子を選ばれました。選び“εὐδοκέω”という語には、喜ぶという意味もあります。神さまはイエスさまに「私はあなたを悦ぶ」と言われたのです。我が子を犠牲にすることは親にとって苦痛であるはずです。しかし、神さまは我が子が御心の通り、人を赦すための旅を始められること、ついには犠牲となられることを悦ばれたのです。神さまにとっては御子を死なせる苦しみに勝って、人が救われることが悦びだったのです。それほどに私たちは愛されているのです。
預言者の時代までは、人には恵みに先行して、それに相応しい者となるための努力が求められていました。しかし、イエスさまの時代を境にして、恵みが先行して与えられるようになりました。正しく生きるための努力は、恵みを得るための条件ではなく、与えられた恵みへの応答であり、自分自身の生き方を捧げるという感謝のしるしとなりました。神さまは御子を差し出されるほどに私たちを愛してくださいました。私たちはどのようにしてそれに応えることができるでしょう。
私たちは、他に代えがたいほどの大きな恵みを何らの代償を支払うことなく、ただで頂きました。私たちに出来る応答は、私たちもまた与えるということによってなされるべきです。ただで頂いたのですから、ただで与えるのです。
私たちには完全ではないながらもタラントとして知恵が預けられています。この知恵を、私たちの助けを必要としている人のために用いるべきです。与えるために知恵を用いるのです。私たちに求められているのは、与えるための知恵です。与えることによって、私たちは御心を行うことができるのですから。