聖霊降臨節第20主日礼拝説教

2022年10月16日

ヨハネの黙示録 7:2-4,9-12

「刻印を押された人々」

教会生活を長く送っていると、その特殊性に気付きにくくなってしまう事柄がいくつかありますが、用語、つまり言葉にも教会の外ではあまり聞かれない言葉があると思います。いわゆる「教会用語」と呼ばれる言葉です。

例えば私たちは互いの名を呼ぶ時に「なになにさん」と呼ぶ他に「なになに姉妹」ですとか「だれだれ兄」と呼ぶ場合がありますが、これは初めて教会に来た人にとっては不思議な言葉です。人によっては「この教会に居る人はみんな親戚なのか」と勘違いをしてしまうこともあるそうです。この言葉の裏側には、誰もが神さまに愛された子ども、神の子であるという意味が込められているのですが、それは説明されないと分かりません。

「預言」という言葉も、教会の外では聞く機会はほとんど無いと思います。「予め言う」と書く「予言」という言葉であれば、それなりに聞く機会があったと思います。例えば20世紀の末には「ノストラダムスの大予言」をテレビや書籍でも大きく取り上げていましたし、今でも毎年その年の経済の動向を預言する経済学者がいたりもします。全然当たっていないようなのですが。

私たちが教会の中で聞く「預言」は、未来の予告ではなく、神さまから預けられた言葉という意味です。神さまが私たちに御言葉を伝えるにあたって、使者として誰かを選び、メッセージを預けるから、その言葉は「預けられた言葉:預言」と言われ、選ばれた人は「預言者」と呼ばれるわけです。

では、今日読まれた書物のタイトルにあります、黙示とは何でしょうか。これも教会の外では聞かれない言葉です。ヨハネの黙示録のタイトルは、第1章1節にあります、“Ἀποκάλυψις Ἰησοῦ Χριστοῦ”(アポカリュプシス・イエスー・クリストゥー)、すなわち「イエス・キリストの黙示」という言葉から取られています。

“Ἀποκάλυψις”(アポカリュプシス)とは、覆いを外すことを意味しています。それまで隠されていた何かが明らかにされるという意味です。このヨハネの黙示録はヨハネが見た幻の記録ですが、この幻において神さまは、人間の歴史をイエス・キリストを通して映し出し、明らかにされたのです。

歴史とは人間の営みその物です。何となく過去の出来事の蓄積を指して歴史と捕らえがちですが、人の営みは現在も続いており、未来へと至っているわけですから、私たちは黙示録に記されている内容を過去の出来事として受け止めるのではなく、現在にも関係しているし、それは未来へと繋がることとして理解すべきでしょう。

では黙示録のテーマとは何でしょうか。それは終末論、神の審判についてです。特に今日読まれました箇所では、天使たちの一人が神の僕として選ばれた人々に刻印を押すという描写があるために、逆に天使に選ばれなかった人々はどうなるのだろうかという不安を覚えてしまいますが、ここで言われている14万4千という数字には「とてもたくさん」という意味が込められています。

聖書において12は満たされた状態、完成された状態を表す数字です。その満たされた数字である12を更に12倍した上でそれを1000倍にしたものが14万4千という数字です。つまりここで天使はより多くの人々に神の僕としての印を押そうとしているわけです。

ヨハネは幻の中で、小羊が七つの巻物を開いて行く様子を見ました。その幻の第1から第5までは、戦であり、経済の混乱であり、飢饉の象徴でした。第6の幻は天の星が落とされ、山や島も動かされ、人々はことごとく洞穴や山の岩陰に隠れる様子を見せていました。このような天変地異の後、第7の巻物が開かれる前に、天使たちは神の刻印をもって人々の額に印を押そうとしているのです。刻印とはつまり、それを押された者が誰の持ち物であるのか、誰の保護を受けているのかを表す印です。

この箇所をもって神さまの選びは限定された人々にのみ与えられると説く人たちが居ますが、その解釈は誤りです。神さまはより多くの人を御自分の民として迎え入れよう、混乱の中から救い出そうとしておられるのです。

人の心に不安を煽ったり、攻撃的で刺激的な言葉を用いたり、闘争心を掻き立てさせたりする人たちが居ます。何かを破壊するという実力行使に出る人も居ます。誰かに戦いを挑む人もいます。そのような人たちの言葉を聞いて行くと、そこに見えるのは現状への不満です。その不満をどのように表現して良いのか分からず、心の中に溜め込んだ結果、攻撃的な行動や言葉として爆発させるという形で表現しているのです。

刻印を持った天使は大地の四隅に立つ四人の天使に「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」と命じました。吹き荒れる嵐は天使によって止められました。それは天変地異の間の、一時の静けさだったかもしれません。しかし、その静けさの間に天使たちは多くの人々に刻印を押し、神さまが守ってくださると約束しました。

刻印が全ての人々に押された後には、たくさんの人々が方々から集められました。これらの人々は、小羊の血によって罪を清められた人々で、みんなが神さまを礼拝し、大きな声で賛美しました。

教会は世の中に対して戦いを挑む者ではありません。私たちは人を相手に戦いません。私たちに挑んでくる人とも戦いません。私たちが戦いを挑むべき相手が居るとすれば、それは人を神さまとの繋がりから切り離そうとする力であって、私たちから愛を覆い隠そうとする力です。

私たちは力では戦いません。私たちが戦う相手は、私たちの力で戦って勝てる相手ではないからです。力ある神さまが戦って下さいます。私たちはただ、一人でも多くの人の心が平安で満たされ、共に喜び、賛美できるように願い、祈り、またそうなるように務めるのです。

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