2022年10月2日
ヘブライ人への手紙 9:23-28
「身を奉げたキリスト」
今日は何やらずいぶんと抽象的な御言葉が与えられました。抽象的ではありますが、何となく分かるような。分かるような気がするんだけれども、どうにも分からないような、そんな気持ちになるのではないでしょうか。私は「なんとなく分かる」という感覚は大切にすべきだと思います。その感じは、この御言葉を通して神様が直接私たち一人ひとりに語り掛けて下さっているという証拠だと思うからです。そして、その感じの先に待っている何かを予感させるように思うからです。
逆に、「これはこうだ、こうに違いない」という思い込みは危険だと思います。決め付けは、それ以上に広がったり前進したりする可能性を失わせてしまうからです。
今日は9章の23節以下が日課として与えられていますが、ここだけを取り上げたのでは少し理解が難しいと思います。加藤常昭という説教者がおりますが、彼は8章1節からが1つのまとまりであろうと考えています。
8章以下の主題は「旧い契約」と「新しい契約」についてです。旧い契約とはつまり、シナイ山において神がモーセとの間に結んだ契約の事を指しています。新しい契約とは、もちろん主イエスの十字架によって結ばれた契約の事を指しています。
旧い契約は、エジプトの地に囚われていたへブル人、イスラエルの民達は、モーセを通して神の導きを受け、荒れ野をさまよった際に結ばれた契約です。出エジプト記を見ますと、20章から23章にかけて、人々が守るべき戒めが記されています。そしてその冒頭では、「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」とあります。
その時に結ばれた契約の中には、礼拝の規定と聖所についての定めもあります。幕屋、つまりテントをこのように設けなさい。その中には燭台や机などをこのように置きなさい。捧げものはこのように捧げなさい。といった定めがあります。モーセはこれらの定めを含んだ契約が結ばれた印として、雄牛の血を鉢に入れ、半分を祭壇に振りかけ、残った半分を「主の定めに従う」と約束をした人々に振りかけてこれらを清め、神の民としました。
イスラエルの人々はこれを記念するために大祭司は、聖所において毎年、雄山羊と雄牛の血によって、祭壇とそこに集まる人々を清めました。
新しい契約の民もまた、血によって清められています。そしてヘブライ人への手紙の著者は、この新しい契約はモーセを通して結ばれた旧い契約にまさるものだと述べています。旧い契約において流された血は、雄羊と雄牛の血ですが、新しい契約のために流された血は、神の独り子であって、キリストである、私たちの主イエスの流された血です。そこに違いがあるのだと言うのです。
そしてもう一つの違いを私たちは知っています。それは、古い契約はあくまでもイスラエルという1民族と神との間に結ばれた契約であるのに対し、主イエスはご自身の血によって結ばれた契約に、全ての人を招いておられるという違いです。すべての人を御救いの契約に含むために、御子は血を流されたのです。
ヘブライ人への手紙の著者はさらに踏み込んで論じます。この著者は、大祭司が祭りをする聖所も、そこで捧げられる血も血を捧げるという行為も、天にあるものの写しに過ぎないというのです。
これは、主イエスの流された血が、雄羊や雄牛の血に対してけた違いに、決定的にまさっているということを明らかにしています。
雄羊や雄牛の血は、聖所の中に備えられた祭壇を清め、またその血を振りかけられた人々、つまり祭りに来た人々を清めます。言い換えるならば、そこにあるもの、そこに居る人をしか清められません。そして、その清めはそれが与えられた後に生じた穢れについては清められません。だからこそ、イスラエルの人々は年ごとに繰り返し雄羊と雄牛の血による清めを行う必要がありました。この清めは、言わば限定されていたのです。
しかし、御子イエスの血による清めは、何ものによっても限定されません。十字架の出来事は確かに地上で起こりました。しかし、主は天に昇り、ご自身の血を、全く傷の無い、罪の無い、最も尊い犠牲として流された血を、写しではない真の祭壇に注ぎ、また地上に生きる人々に振りかけられたのです。
25節から26節の記述は、キリストが天でなされた清めは時間を超えて、常にそこでなされていると示しています。
父なる神は人を憐み、赦しを与えることを望まれました。そのために御子を地上にお遣わしになりました。もしも天が時間を超えられないのであれば、つまり、十字架の出来事が時間の流れの中で一つの時点でしか赦しを与えられないようであったならば、御子はひっきりなしに地上に降り、その度に十字架に登られなければならなかったはずです。しかし、そのようなことは起きていない。十字架の出来事は、ただ一度しかなかった。これこそが、十字架の血による契約はその時限りのものではなく、時間を超えて私たちに開かれていると示していると、そういう論理なのです。
神は何ものにも縛られません。何ものによっても支配されません。神は支配されるのではなく、支配なさる方です。いかなるもの、いかなる力によっても囲い込めません。時間もまた、神を縛れません。御子イエスも同様です。そして神と御子がおわします天も、時間をも超えた存在です。だからこそ、私たちは住んでいる国の違いや民族の違いも乗り越えて、2000年という時の隔たりさえも乗り越えて、御子の血による赦しに、御子の招きに預かれるのです。
先ほど私は、この地上にある聖所や祭りは天にあるものの写しであると申しました。旧い契約の民にとっての祭りは、新しい契約の民である私たちにとっては一体何なのかと考えますと、それはやはり毎週の礼拝です。礼拝は天でなされているキリストの業を、キリストの理想をこの地上に映し出す似姿です。
聖餐式で私たちはひとつの食卓を囲みます。主の招かれる声を聞き、これに応えた人々の囲む食卓です。主はより多くの人が招きに応えて、共に食卓を囲める日を待ち望んでおられます。
代々の教会が、主の招きを伝えるための努力をしてきました。ある教会は、もはや子どもと大人との隔てを取り除けようと、礼拝を子どもの礼拝と大人の礼拝に分けることをやめました。ある教会では、教会に集まる全ての人が等しく教会を建てているのだと言って、総会の議席を教会員にのみ限るのではなく、その時その場にいる全ての人に開きました。
それらが正しいのか間違っているのか、あるいはリスクが大きすぎるのか適切なのかといったことは誰にも分かりません。それぞれの教会によって、合った方向性というものがあるでしょう。ただ、その選択の背景には、その教会の願いがあります。
私たちはいったい何を願いましょう。何となく持っているイメージ、何となく「こうであったら良いな」という思いは言葉に出来ないかもしれません。それでも、そのイメージを大切にしましょう。そのイメージを現実のものとしたいと願って心から祈る時、それは単なる理想や幻では終わらないはずです。
私たちは天上で行われる理想を、ここで再現するのです。