降誕前第9主日礼拝説教

2022年10月23日

ヨブ記 38:1-18

「神の経綸」

一人で努力しても、中々達成できない、途中でくじけてしまう事柄があると思います。私にとってはヨブ記でした。聖書の通読に挑戦した時、他の書物はそれなりに毎日読めていたのですが、ヨブ記は読み続けるのが苦痛でした。「なぜ神さまはこんな理不尽をなさるのだろう。なぜ友人たちはヨブを慰めるどころか責め立てるようなことしか言わないのだろう」と、読んでいてどんどん気持ちが重くなってしまうのです。

一人で出来ないことは誰かに頼るのが私のやり方です。すぐに「助けて」と言ってしまいます。私は友人に助けを求めました。その時は学生寮に住んでいましたので、友人に頼んで、毎晩一緒に輪読をしてもらいました。聖書を二人か三人で読んだ後、感想を含めた雑談をしてから寝るのが習慣になりました。おかげでヨブ記を読み終えられたのですが、それからは毎日、友人と一緒にほんの30分の間ですが、聖書を読む時間が楽しみになったことを覚えています。

物語の主人公であるヨブはウツという所に住んでいました。ウツは今のイスラエルの南の地域、エジプトやヨルダンとの国境に挟まれた辺りにありました。ヨブは大変豊かで、七人の息子と三人の娘、7千匹もの羊、ラクダも3千頭、牛500くびき、雌ロバも500頭を持つ大富豪でした。更に人格的にも優れており、町の住民や支配者層もヨブには敬意を払っていました。

神さまの目からご覧になっても、ヨブは正しい人でしたので、神さまの使いが集められた際にも神さまはサタンに問いかけました。

「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」

サタンは返事をします。

「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」

サタンは、試しにヨブを苦しめてみることを提案します。そして、神さまは何とその提案に許しをお与えになりました。

サタンはヨブから妻を除いた全ての家族を奪い、財産を散らしてしまいました。それでもヨブは神さまを悪く言いませんでした。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」

これで苦しみは終わりではありませんでした。サタンはヨブを酷い皮膚病で苦しめます。苦しむ様子はヨブの妻をして「いっそ神さまを呪って死んだ方がましではないか」とまで言わせるほどでした。そんな妻をヨブは叱ります。

「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」

ヨブは神さまに対して悪い言葉を発しませんでした。

ヨブが随分苦しんでいると聞いた彼の友人三人が、ヨブを慰めるために訪れます。しかし、病気のために姿形まで変わってしまったヨブの姿に彼らは声を上げて泣き、何も言えなくなってしまいました。

ここに至って、初めてヨブは苦しみを吐き出しますが、ヨブの言葉を聞いた友人の口から出たのは、慰めとは程遠い言葉でした。一人目のエリファズは「お前はきっと気付かぬ間に何等かの罪を犯したに違いない。」と言い、二人目のビルダドは「子どもたちが罪を犯したに違いない。」と言います。しかし、それらはどれもヨブには身に覚えの無いことでした。

三人目のツォファルは「どれほど自分で自分を正しいと弁護したところで誰も納得しない。神さまの御前に罪を認め、赦しを乞うべきだ」と助言をしますがヨブは、「身に覚えの無い罪を形だけ認めて悔い改めるポーズをしたところで何になろうか。それは嘘ではないか。」と反論します。そして、神さまからの納得のいく説明をくださるか、いっそ黄泉に落として欲しいと願います。

三人の友人はきっとヨブを心配してそれぞれの論法でヨブの苦しみを軽くしようと思ったのでしょう。それらは正論ではありましたが、彼らの用いた論法はかえって傷口に塩を塗り付けるような結果になってしまいました。

その後も友人たちとヨブは議論を続けるのですが、業を煮やされたのか、神さまが直接ヨブに語り掛けられました。神さまは創造の御業を一つ一つ数えてヨブに問いかけられます。

「天地の万物を据えた時、お前はそれを見ていたのか。どのようにしてそれがなされたのか知っているなら説明してみよ。」

人間がどれほど知恵を巡らして考えようとも、神さまは人間の知恵を遥かに超えたお方であって、神さまのなさることと、その裏にある神さまのお考え、御心は人間の頭で理解しきれるようなものではありません。それは当たり前のことなのです。

神さまは御自身の大きさを表されました。これはヨブの求めていた答えではありませんでしたが、これによってヨブは人間の小ささを知り、改めて神さまと自分との本当の関係に気付きます。

42章でヨブは神さまに告白します。「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。『これは何者か。知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは。』そのとおりです。」

完全とは程遠い人間の、不十分な言葉で神さまを理解し説明しようと試みても、それらの言葉は神さまの御姿、御業の偉大さを限定された小さな形でしか表現できないのです。今、自分の身に起きていることが不幸なのか幸いなのかすら、人間には分からないのです。

神さまは私たちに、時に与え、時に奪われます。持っていた何かが失われた時、人間はそれを嘆きます。でも、それが不幸なのか幸いなのかを知っているのは神さまだけです。

私は群馬の山奥で10年間木工職人として働いていました。元々手を使った仕事は好きだったこともあって、いっぱしの職人になっていたと思います。おおよそ何でもできましたし、最後のあたりにはいくつかの工程との間の調整も任されていました。

神学校の入学試験に合格し、いざ東京に出ようという時になって、私は怖くなりました。ここでこの仕事を辞めたら、これまでに身に付けて来た技術を捨てることになる、10年間の努力が無になってしまうのです。仮に今、ろくろの前に座ったところで、昔と同じように働けるわけはありません。私の手から技術は無くなっています。

でも神さまは、失った以上の喜びを私に与えてくださいました。今のこの生活が私には喜びと幸せに満ちている、それが証拠です。出来なくなったこともある。でも、それに優るものを神さまは与えてくださった。神さまは私にだけそのようにしてくださるのではありません。みんなに同じようにしてくださるのです。

歳を重ねればできなくなることも増えてきます。それは悔しいし、情けなく思ったりもするでしょう。でも、それは不幸なことではありません。そもそもそれらは、神さまの御心を行うために私たちに託された賜物であって、それを失う時、私たちはそれを神さまにお返ししているのです。その時、神さまは少しずつ私たちの重荷をも軽くしてくださっているはずです。そして、それまで負っていた重荷に代えて、喜びを加えてくださっているはずです。

一人で出来なければ二人でやれば良い。自分で出来なければ、誰かにやってもらえば良い。それは煩わしさを押し付けているのではありません。してあげる喜びを、誰かのためにという喜びを、その人に分けて上げられるのですから。子や孫が成長し、私たちを助けてくれるようになった時、それは喜びですよね。私たちの目が開かれたならば、私たちの周りには良いもので溢れていると気付けるはずです。あなたが誰かを頼る時、喜びは増えているのです。それで良いのです。心苦しく思わなくて良いのです。ただ、「ありがとう」という気持ちあれば、出来ればその言葉が口から出てくれば、それで充分なのです。

神さまの前に立つ自分、世界の中の自分を見出し、愛しましょう。神さまを愛し、神さまの創られた世界を愛し、神さまに創られた自分を愛しましょう。私たちは生まれる前から天に召されるその時まで、その時より後も愛されているのです。

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