降誕前第8主日礼拝説教

2022年10月30日

創世記 9:8-17

「身を奉げたキリスト」

聖書は全ての人が神さまの御前においては罪びとであると教えています。ですので私たちは例外無く全ての人が罪を負っていると考えているわけですが、これは前提である「罪とは何か」という問いへの答えを理解していないと、受け容れられない考え方だと思います。誰だって、あどけない赤ちゃんに罪があるとは全く思えないからです。

罪とは、一般に考えられているような悪い行動、例えば人を傷付けたり迷惑を掛けたりという行いのことではありません。聖書の言う罪とは、今日パウロが議論の俎上に乗せたアダムの背きに源があるのです。

神さまは御自身に似せて人を創られました。土をこねて体を創り、その鼻に命の息を吹き入れられると、人は生きる者となりました。これが最初の人アダムです。

神さまはアダムをエデンの園に住まわせ、そこに生えている木から自由に食べるようにとお命じになりました。ただし、善悪の知識の木からは食べてはいけないと禁じられます。それからアダムを深い眠りに落とされると、共に生きるパートナーとして女を創られました。神さまは人に愛し合うべき相手を与えられたのです。

しかし、人は神さまに背いてしまいました。女は蛇の誘惑に負けて神さまから禁じられていた善悪の知識の木から実を取り、男と分け合って食べてしまったのです。

神さまが園の中を歩く音を聞くと、アダムと女は神さまの御顔を避けて隠れてしまいます。それを不審に思われた神さまはアダムに、禁じておいた木から取って食べたのかと問われます。

アダムの返答は婉曲でした。単に「食べました」と答えれば良いところを、「女が、木から取ってあたえたので」と、暗に女のせいであると言い、更には「あなたがわたしとともにいるようにしてくださった女が」と付け加えて、神さまに原因を押し付けようとしたのです。

これを聞いた神さまは女に「何ということをしたのか」と問いかけられます。女は「蛇がだましたので、食べてしまいました。」と答えました。アダムも女も、自分の行いに責任を取ろうとしませんでした。

この物語の中から見て取れる人の罪とは何でしょうか。一つにはもちろん、禁止を破ったという神さまへの背きですが、それは次にあげる罪を代表して言い表しているのだと考えます。

アダムと女は、裸のままでは居られなくなってしまいました。ありのままの自分を赦せなくなってしまったのです。さらに、本来であれば愛し合い、助け合うべき者だったはずなのに、アダムは女に罪をなすりつけよう、自分だけを守ろうしました。アダムの罪は女を切り捨てて自分を守ろうとした利己心です。

この二人が神さまの御顔を避けて隠れてしまったことにも問題があります。祝福の言葉の中に、「主が御顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を賜りますように」と言う文言がありますが、彼らは主の御顔を避けました。主の祝福を避けたのです。

聖書は人を良く理解していると思わされます。人は成長するにつれて知恵を身に付けます。知恵を持った人は自我を持つようになります。自我は疑問を持つことを人に教えます。子どもはあらゆる事柄について疑問を持ち、一つひとつを確かめながら成長します。

疑うということはつまり、自分と他者との間にある違いを認識するということでもあります。違いを認識すると同時に、この二人は互いの間に隔てを築いてしまいました。

子どもたちの様子を見ていると考えさせられることがあります。みんながしていることを自分は出来ないという時、子どもは傷付き、怒ったり泣いたりします。自分の理想の姿と実際の自分との間に乖離を見出した時、子どもは自分を肯定できなくなってしまっています。

他者と自分を比較したり、想像上の自分と実際の自分を比較し、そこに隔たりを見付けたりしてしまう。その結果、ありのままの自分を認められなくなってしまう。自分の内面に隔たりを感じながら生きるのはとても辛いものです。自分を愛せないのは、何にも増して辛いのです。

神さまは常に、隔てを取り除けようと働きかけてこられました。人と人との間にある隔てを取り除けよう、人の心の中にある隔てを取り除けようとして来られました。その最大の働きかけが、イエスさまの十字架の出来事です。罪の無い神の御子が私たちに代わって罪を負い、死んでくださった。そこに現れされている私たちへの愛の大きさを信じる時、神さまの御心を受け容れられた時、私たちは罪の支配から脱出できるのです。他者を他者として愛し、赦し、自分を自分として愛し、赦せるようになるのです。

もちろん、信じるようになったからといって、二度と隔てを作らなくなるというわけではありません。誰でも同じことを繰り返してしまうと思います。でも、何度でも立ち返って再出発できると聖書は私たちに教えているのです。ノアの方舟の物語は再出発の物語です。

方舟から出て来たノアを見て神さまは御自分の心の中で言われました。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」

これは決して神さまが人間に絶望されたために仰った言葉ではありません。弱く、愚かな存在である、不完全なものである人を、そのままで赦してくださったのです。そして、その不完全な者の中にあるほんの小さな良心を育てようとなさるのです。

悪に染まってしまった人ばかりになってしまった中、良い心を保ち続けたノアは、罪に満ちた私たちの心の中に残る小さな希望の象徴です。愛したい、愛し合いたいと願う心をノアは表しているのです。

全てを受け容れられる人間など居ません。他者の全てを受け容れ、自分の全てを受け容れられる人間など居はしません。何度も私たちは辛い思いをします。しかし、その度に神さまは再出発をさせてくださるのです。

罪の大きさに対して小さな愛しか持てない自分を顧みて、申し訳なく思う必要はありません。むしろ私たちは自分の小ささを一つの尺度にして、私たちに注がれている神さまの愛の大きさが図り切れないほどであると感じられるのですから、まず感謝をすべきなのです。そして、何度でも明るく前向きに歩み始めるのです。

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