2022年10月9日
コロサイの信徒への手紙 1:21-29
「キリストは私たちの内に」
今日読まれました創世記第32章とコロサイの信徒への手紙第1章は、どちらも闘い、格闘を扱っています。闘いと言いますと、第一義的には自らの意志を他者に強制するため、人と人とが衝突する行為を指しますが、苦しみや悩みに抗い、乗り越えるための努力を指して格闘と表現することもあります。ヤコブはまさに悩んでいました。兄エサウの居る故郷に帰ろうとしていたのですが、兄がひどく怒っているのではないかと考えていたからです。
ヤコブはイサクの次男として生まれましたが、兄であるエサウよりも頭の回転が速かったようです。エサウが空腹に悩んでいる時、ヤコブはレンズマメの煮物と交換に長男の権利を譲り受けてしまいました。また、本来であれば長男が父から受けるべきである祝福をも騙し取ってしまい、これらのことが理由故郷に居られなくなったヤコブは、アラム人ラバンの元に逃亡しました。
逃亡先でラバンの娘を娶ったヤコブでしたが、財産のことで不当な扱いを受け、更には妬みによって中傷されたためにラバンのもとには居られなくなってしまいました。主がヤコブに「先祖の土地に帰れ」と命じられたので、ヤコブは2人の妻と共に家畜を連れて故郷に帰ることとしました。
しかし、先ほど申し上げたような経緯で故郷を飛び出していたので、帰ったとしても兄エサウの怒りによって報復を受けるのではないかと恐れていたのです。
悩みつつ旅するヤコブがヤボクの渡しで野宿をしていると、何者かがヤコブに襲い掛かって来ます。ヤコブは一晩中格闘しますが、その際腿の関節を外されてしまいます。それでも必死でしがみついていると、相手は「もう離してくれ」と言います。実質的にはマイッタをしたわけですが、ヤコブが「あなたが私を祝福するまでは離さない」と言ったために相手はヤコブを祝福し、彼に「イスラエル」という新たな名を与えました。これは「神が支配する」という意味の名前です。
これまでのヤコブの人生は、好き勝手をしていたようにも見えますが、実際には自分の欲望に振り回されていました。自分の行いを清算しなければならなくなった時、彼は一人闇の中で悩みに悩みます。その悩みに、神さまは「格闘」という形で相手になってくださいました。ヤコブの悩みとがっぷり四つに組み合ってくださったのです。
ヤコブは必死にしがみつきました。彼は神さまにしがみついたのです。それゆえに神さまはヤコブを祝福し、「これからのあなたは、そしてあなたの子孫は私の支配の内にある」と宣言なさったのです。その上、このすぐ後には兄との和解も実現させてくださいました。これがヤコブの格闘です。
コロサイの教会の格闘とはどのようなものだったでしょうか。
コロサイの町がどこにあったのかはハッキリしていません。町が存在していたことを示す遺跡が出土していないため、その位置は推測するしかないのです。かつては重要視され、大いに栄えた町だったのですが、何らかの理由で衰えてしまいました。パウロが手紙を書いた頃でさえ、すでに小さな町でしかありませんでした。
コロサイの教会は、おもにユダヤ人ではない人々によって構成されていました。21節にある「あなたがたは、以前は神から離れ」とある言葉がそれを示しています。しかし、今はイエスさまが彼らを取り戻し、彼らは神さまの御手の内に招かれました。コロサイの人々は、イエスさまが全ての人のために苦しみを受け、死んでくださったことを聞き、イエスさまを信じる者となったのです。
ところが、古代地中海地方を飲み込もうとしていたグノーシス主義はコロサイの町にも侵入してきました。だからパウロはコロサイの人々に手紙を書き送り、励ましたのです。
この手紙の中に、少し引っ掛かる言葉があります。それは24節の「キリストの苦しみの欠けたところ」という言葉です。イエスさまの御苦しみは不完全だったのでしょうか。この言葉はイエスさまの御苦しみではなく、キリストに従おうとする者に降りかかる迫害や苦しみを指しています。
多くのキリスト者が迫害の苦しみや異端の誘惑に負けてしまいがちであった中、パウロは必死で苦しみや誘惑と格闘している人々を励まそうとしていたのです。キリストはあなたたちの内にあり、希望を与えるのだと励ましているのです。
衰えつつある町で、一所懸命にイエスさまに従おうとしがみつく人々に宛てて書かれた手紙が、今に生きる私たちをも励まします。
人は誰でも生活の上で苦しみ、悩みます。特に人生の終盤においては過去の行いを振り返って悩むこともあります。自分が衰え、弱って初めて痛みを知り、自分の行いに気付くということもあるでしょう。過去の行いに後悔し、悩むかもしれません。それを「過ぎ去ったことだ、考えても仕方ない」と諦めをもってとらえますか。「今だから理解できる。この後悔もまた神さまのなさること、私に用意された良いもの」と、満足をもって捉えるならば、それはきっとあなたから湧き出る恵みとなり、周りの人たちへの祝福となります。それは新しい喜びに気付かせてくれるかもしれません。
私たちの戦いは力の発揮や言葉の衝突ではありません。何かへの抵抗でもありません。私たちの戦いは、私たちの戦い方は、喜びです。喜ぶことが私たちの戦い方です。私たちが恵みを受け、毎日を「良い」と思い、満足し、喜んで生きるならば、私たちの内に居られるイエスさまと共に生きるならば、それこそが勝利ですし、それが一番の証しとなるのです。
毎日の生活の中に、喜びを求めましょう。楽しんで毎日を生きましょう。