2022年11月13日
出エジプト記 3:1-15
「モーセの召命」
今日、主なる神さまはモーセを召し出されました。モーセは神さまに、その名を問います。神さまはモーセに答え、その御名をお教えになりました。その名は「わたしはある」。かつては、「有って有る者」「有りて在る者」と訳されていましたが、どの訳を見ても不思議な名前です。この名は一体なにを意味しているのでしょうか。今朝は、モーセに語り掛ける神さまの御言葉を聞きましょう。現在の中東一帯を襲った飢饉による飢えから逃れるためイスラエルの民はエジプトに逃れました。ところが、エジプトで増え始めたイスラエルを見たファラオは、彼らを脅威であると考え、人為的にイスラエルの人口を調整しようとします。今、わたしはサラッと申しましたが、実に恐ろしい言葉です。飾らずに言うならば、民族浄化をしようと、絶滅政策を取ったのです。
具体的には、イスラエルの民に生まれた新生児のうち、男の子を皆殺しにし始めたのです。しかし、モーセは姉の知恵によりファラオの手から逃れ、エジプトの王女に拾われ、大人になるまで育てられました。
大人になったモーセは、ある日同胞であるイスラエル人がエジプト人に虐げられているのを見、激しい怒りに駆られ、そのエジプト人を殴り殺してしまいます。これによりエジプトに居られなくなったモーセは、ミディアンの地に逃れ、羊飼いの一員として生き始めます。
その間にファラオは死に、代替わりをしますが、イスラエルに対する迫害は続きました。神さまはイスラエルの苦しみの声を聞き、彼らを顧みられました。
その日も、モーセはいつもの如く、羊たちを追っていました。良い草の生えているところや、水場に羊たちを連れて行くことが、彼の毎日の仕事だったのです。羊の群れを追っている間に、モーセは神の山と呼ばれるホレブの山に差し掛かりました。その時、柴が燃えているのに気付きました。
「柴」という言葉は、わたしたち良く知っている昔ばなしである、桃太郎にも登場しますが、この言葉はすでに死語となっていると言っても良いでしょう。日常生活では全く使われることの無い言葉です。中には、同じ音を持つ言葉である芝、芝生にするあの「芝」と勘違いをする人も多いようです。ここで言う柴とは、いわゆる灌木のことです。例えば建材などの木材に加工することが出来るような大きな木でもなければ、食べることができる実を結ぶわけでもない、そんな木のことです。人々があまり注意を払わなかったような木の事を指します。でも今は違います。なにせ燃えているのですから。
モーセは柴が燃えている様子をじっと観察します。そしてすぐに、燃えても燃えても、この木が燃え尽きる様子が無いということに気付きます。このことに興味を持ったモーセは、もっと良く見ようと、道をそれてこの柴に近付きます。
柴に近付くモーセをご覧になった神さまはモーセに声をかけ、名前を呼ばれました。神さまは柴を燃やすことでモーセの注意を引き、しかも燃え尽きないということで、そこにご自分がおられるということを示されたのです。
神さまは言われます。「履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
神さまはモーセの立っている場所を「聖なる所」であると言われました。この土地には、それを聖なる所とするような特徴が何かあったのでしょうか。例えば日本では、「滝には不動明王が居るから特別な場所である」とか、「とてつもなく古い大木があるから、そこは清い場所だ」と考えたり、また感じたりしますが、いまモーセが立っているそこにあるのは、普段ならば気にも留めないような柴が生えているだけで、これといって特徴はありません。ではなぜ神さまはそこを「聖なる土地だ」と言われたのか。答えはとても単純です。いまそこに神さまが居られるからです。神さまが居られるところが即ち聖なる土地なのです。
そこに居られる方がどなたなのかを知ったモーセは、神さまを見ることを恐れて顔を覆います。モーセは神さまの前にへりくだります。そのモーセに神さまは続けて語り掛けます。
「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」
モーセは神さまの前にへりくだりました。それは、神さまと人との間には越えがたい隔たりがあって、それを犯してはならないと考えたからです。それに対する神さまの御言葉から読み取れることは、神さまは苦しむイスラエルの様子を、すぐ傍で見て、その苦しみの声を聞いたということ、つまりイスラエルの人々のすぐそばに、イスラエルの人々が生きる生活の場に来られたということです。人間にとって神さまが遠い存在であるように感じられたとしても、神さまにとってはそうではない。神さまの願いは、人間のすぐそばに居る事なのです。
そしてついに神さまはモーセに、ファラオのもとに出向いてイスラエルの人々をエジプトから連れ出すようお命じになります。
その神さまの命令に対するモーセの返事は、質問の形ではありますが、明確な拒否です。「なぜわたしがそんなことをしなければいけないのですか。」「いったいわたしが何者だからというので、あなたはそんなことをお命じになるのですか。」
随分と消極的な返事だと思います。しかし、この場合は少しだけモーセの気持ちが分かるような気がします。今のモーセの立場に対して、与えられた仕事が大き過ぎるのです。これがもう少し前なら話は違ったかもしれません。モーセはエジプトの王女の庇護のもとで育ちました。つまり、権力者との、それも国家レベルの権力者とのコネクションがあったからです。少し前なら、神さまが命じられたことを実現しうる力があったのです。
ところが今の彼は、ただの羊飼いです。いえ、ただの羊飼いではありません。お尋ね者なのです。人目をはばかって、日陰で生きなければならない立場にあるのです。そう考えると、ファラオの前に出るというだけでもリスクの大きなことなのに、さらにイスラエルの解放を説得するなど、とても難しくて出来ないとモーセが考えたとしても無理はないと思います。今のモーセは無力なのです。
わたしは子どもが好きです。子どもを愛しています。しかしわたしは、ご存知の通り子育ての経験もありませんし、例えば教育学を学んだわけでもなければ、子どもと関わる仕事に就いたこともありません。わたしはプロではありません。
平日の教会は、幼児園の子どもたちの声で満たされています。笑い声や歌声もあれば、喧嘩をする声や泣き声が聞こえる時もあります。泣く子どもを前にして、具体的な解決や適切な声かけが出来た試しがありません。いつも、どうすれば良いのか分からないのです。わたしに出来るのは、泣いているのが小さな子であれば抱っこして背中を叩く、大きな子であれば抱き締める、それだけです。わたしは泣いている子どもを抱いて佇むだけなのです。でも、それで良いと考えています。
泣いている子どもにまず必要なのは、泣いている自分を受け止める者の心、自分の感情を受け止めようとする者の心、自分と一緒に在ろうとする者の心への気付きです。
このように考えるようになった切っ掛けは、前任地での経験にあります。
朝、職員の礼拝が終わって牧師室に行こうとすると、園舎の玄関に男の子が一人で立っていました。その子は目に涙を溜めていました。
「どうしたの?」と聞くのと、その子がわたしの方に来るのと、わたしが膝を床についたのは、ほとんど同時でした。その子が動いた瞬間に、わたしは膝をつくべきだと、何となく思ったのです。すると、その子は当たり前のようにわたしに抱き着き泣き出しました。わたしも当たり前のように彼を抱き締めました。
わたしは、こんな時にどうすれば良いのかなどは考えもしませんでした。ただ、膝をつき、抱き締めました。何か言葉を掛けるわけでもなく、ただ抱き締めました。掛けるべき言葉など分からないから、子どもの涙の前にわたしは無力だから、そうするより他に無かったのです。
しばらくして、彼が落ち着いたころに、「お友達のところに行ける?」と聞きますと、彼はうなずいて、教室の方に歩いて行きました。
わたしはこの時、わたしの体を神さまがお用いになったのだと感じました。わたしに何かが出来るから、わたしをお用いになったのではなく、ただこの子を抱き締めるために神さまがわたしをお用いになったのだと、そう感じました。
それ以来、わたしは泣いている子どもを見付けたらまず抱き締めるようにしています。
何回も抱き締めているうちに、一つのことに気付きました。それは、わたしは抱き締めているつもりだったけれども、実はわたしが抱き締められているという、そのことにです。
自分が子どもの頃にしてもらったことや、してもらいたかったことを今の自分が子どもたちにしている。子どもたちを抱き締めているように見えて、実は自分が抱き締められていると気付いたのです。
誰かのために神さまがわたしたちをお用いになる時、そこに神さまがおられるのです。そこに神さまがおられて、実は神さまがわたしを抱き締めてくださっているのです。誰かのためにわたしたちの体を神さまに用いていただく時、そこには神さまがおられるのです。だから神さまはモーセに約束なさいました。
「わたしは必ずあなたと共にいる。」
そして神さまは名乗られました。
「わたしはある。わたしはあるという者だ。」
子どもが泣く。それは幼児園では日常的な光景です。モーセにとっては、羊とともに歩く日々のように。しかし、その日常的な光景の中に神さまがおられるのです。
神さまは、どこにでもあるような、普段は誰も注目しないような柴を用いてモーセを引き出されました。普段なら気にも留めないような柴の中に神さまが居られ、働かれ、わたしをそこに引き出されました。
そして神さまは、この無力なわたしをお用いになった。なんの隔たりも設けず、この小さなわたしをお用いになった。そして、それ以上に、子どもたちを通してご自身がわたしの傍におわしますことをわたしのために明らかにされます。
わたしたち全ての日常の中に、いつでも神さまが居られるのです。ですから、神さまの御名をもう一度意識しましょう。
わたしたちの神さまは、わたしたちと共に、いつでも、いつまでも居て下さる方です。神さまは、あなたとともに居られます。あなたが泣く時にはあなたを抱き締めてくださいます。そして日常生活の中であなたをお用いになります。
わたしたちの神さまの御名は、「わたしはある」。あなたといつもともに居てくださる方です。
わたしたちの神さまの御名を、心に刻みましょう。