2022年11月20日
サムエル記下 5:1-5
「王を迎える」
この地上に存在するもので、永遠に続くものはあり得ません。自然物にせよ、人の手で造られたものにせよ、時間が経つにつれて、あるものは姿を変え、別のあるものは存在そのものが無くなってしまいます。私たちの国もそうです。滅びない国は存在しません。どれほど大きな国であっても、いずれ終焉の時を迎えます。1991年には大国であったソビエト連邦が解体されました。わたしたちの住む日本とて、いずれは滅びます。日本の滅びをどのように定義するかは人によって違うかもしれません。ある人は民主主義からの転換をもって滅びとするかもしれませんし、別の人たちは皇室制度の断絶こそ日本の滅びだと言うかもしれません。いずれにせよ、どのような国も何等かの形で滅びを迎えるのです。
イスラエルの民も時代によって大きく姿を変えて来ました。
モーセによってエジプトから導き出されたヘブライ人、つまり今のユダヤ人は、カナンの地に至るとそれぞれの部族ごとに分かれて住み、ある者は遊牧民として、ある者は定住者として生活を始めました。
生きていく中で、課題や困難に出会うと部族ごとにそれを解決し、一つの部族では解決できない困難にあたっては複数の部族が協力しあって問題に取り組みました。その時、問題を解決するための知恵や力を与えたのは神さまでした。神さまは信仰的な、政治的な、また軍事的なリーダーとして士師と呼ばれる人を立て、士師を通してヘブライの民を統治していました。
ところが、周辺勢力との摩擦が激しくなるにつれて、統一された力を速やかに行使する必要性から、ヘブライ人は人間の王を戴くべきだと考え、サムエルに王たるべき人物を選んで欲しいと願い出ます。
当初、王制への移行に反対したサムエルでしたが、民が聞き入れなかったので神さまの御指示によって王に相応しい人物を探し、ついにベニヤミン族の中にその人を見付けます。背が高く美しい若者、サウルでした。
サウルは特に戦争指導において高い能力を発揮し、外敵をことごとく打ち払います。しかし、アマレク人との戦いの際に得た戦利品である家畜の群れに対して欲を出し、「全ての戦利品を滅ぼし尽くせ」との神さまの命令に背き自らの懐に入れてしまいました。これをご覧になった神さまの御心はサウルから離れてしまいます。
この出来事を皮切りに、サウルは信仰の上でも、また人間関係においても道を踏み外し始め、ついにはペリシテ軍との戦いで敗れて自害してしまいます。サウルの四男であるイシュ・ボシェトが代わって王位に就きますが、サウル王家は衰退し続け、イシュ・ボシェトが暗殺されるとダビデが代わって王となります。それが、今日読まれた箇所です。
今でも旧約聖書の中で最大の英雄、名君と言われているダビデではありますが、王の座についてしばらくすると、やはりこれも罪に堕ちてしまいます。部下の妻に横恋慕して強引にこれを我が物とし、更には部下を意図的に戦死させてしまいました。この行いによって神さまは「ダビデとその子孫には剣が永久に離れない」と宣告をなさいます。そして事実、ダビデの家には諍いが絶えることなく続き、ダビデの孫であるレハブアムの時代には北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、ついには両方ともアッシリアとバビロニアによって滅ぼされてしまいます。
このように、世俗の王たちは、それがどのような人物であったとしても罪から無縁では居られませんし、その国がどれほど大きく盛んな国であったとしても、いつかは滅びてしまいます。
では、主イエスの場合はどうだったでしょうか。イエスさまはルカによる福音書第1章33節にある受胎告知の場面で「永遠にヤコブの家をおさめ、その支配は終わることがない」と言われています。
イエスさまは地上での歩みの中で、福音を、憐れみと愛を絶えずご自身の行い、数々の御業によって私たちに見せ、御言葉によって語り掛けてくださいました。変わったのはイエスさまを取り巻く人々の方でした。イエスさまがエルサレムに入城なさる際には「主の名によって来られるかた、王に祝福があるように」と歓声を上げて迎え入れたはずなのに、それがあっという間に一変してイエスさまをあざけり始め、「ユダヤ人の王」という札を付けて十字架にかけてしまいました。
世俗の王たちは、王座についたが故に罪を犯し、その罪のために血を流し、王国を滅ぼしました。しかし、イエスさまは罪が無いのにも関わらず血を流し、そのゆえに神さまによって王の座に上せられました。イエスさまは人々の罪を負ってご自身の命を捧げる王でした。この王は、王の座に就かれる前も、王となられた後も変わることなく私たちを愛し、私たちに語り掛け、共に歩んでくださる方です。
世界は変わります。それに応じて教会の姿も変わります。それこそ私たちが想像もしなかったような未来が待っているかもしれません。その一方で、どれほど世界が変わろうと、どれほど教会が変わろうと、決して変わらないものがあります。それこそ、救いの約束です。
主と並んで十字架につけられた男の告白に対して主は苦しい息の下で「あなたは今日、わたしと一緒に楽園に居る」と約束なさいました。主は滅びかけていた男を救い出されました。イエスさまはわたしたち全てに同じように約束してくださいます。わたしたちをも同じように救ってくださいます。それが土壇場の時であったとしても。だから、どれほどの苦難の中にあったとしても私たちは希望を見出し続けるのです。この希望は滅びません。
今年もまた御降誕を待ち受ける時期となりました。クリスマスも大きく姿を変えて早3年目です。それでも私たちの王イエスさまをお迎えする喜びは変わりません。喜びは決して滅びません。喜びのうちに希望の御子をお迎えする準備をいたしましょう。