2022年11月27日
エレミヤ書 33:14-16
「恵みの果たされる日」
2022年もいよいよ後ひと月ほどとなりました。今年は平和とはとても言えない年でした。国の内外で大きな事件がいくつも起きました。その2022年がいよいよ終わろうとするこの時に、主はルカによる福音書とエレミヤ書から御言葉を示されました。そのどちらも、動乱によって心を騒がせられる人々に対する励ましと慰めの約束がテーマとなっています。
エレミヤは紀元前7世紀末から紀元前6世紀前半にかけてユダヤ王国で活動した預言者です。この時代、ユダヤ人は危機的状況に陥っていました。外に目を向けますと、周囲に大国が生まれ、ユダヤ人の住む地域にまで手を伸ばすようになりました。ユダヤ王国にとっては別れた兄弟とも言えるイスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされてしまいました。そのアッシリアがバビロニアによって滅ぼされると、バビロニアはユダヤを狙うようになります。
国の中に目を転じますと、ユダヤの人々はかつて先祖をエジプトから導き出した神を捨て、バアルという農耕の神を崇拝し始めていました。このような状況にあるユダヤの人々に対して、エレミヤは神さまの御言葉を語って聞かせたのです。
エレミヤは厳しい警告を発します。「煮えたぎる鍋が見える。北からこちらに傾いている。」これは北から迫るバビロニア王国による災いを指しています。この災いを避けるために悔い改めを訴えました。
しかし、エレミヤの預言に耳を傾ける人は多くはありませんでした。王たち支配者層にとってエレミヤはかつて神殿から追放された祭司の子孫でした。偉大な王ダビデの後、ソロモンが王位を継承しましたが、この時ソロモンの腹違いの兄アドニヤを擁立しようとした預言者アビアタルはアナトトという町に追放されます。エレミヤの父はアナトトの祭司でしたので、アビアタルと繋がりがあったと思われます。つまり、今の王家にとってエレミヤは危険な外様なのです。
民衆もエレミヤを快く思っていませんでした。バアル信仰に傾いた民衆に対してエレミヤはあまりにも率直に批判の言葉を投げかけました。このためエレミヤは民衆の反感によって殺されてしまう可能性すらあったのです。
ユダヤの人々は、上も下も神さまの御心から離れ、悔い改めることがありませんでした。
ついに神さまはバビロニアの王ネプカドネツァルを用いてエルサレムを包囲し、陥落させます。この時、エレミヤは統治者からも、民衆からも疎ましく思われていたために牢に繋がれてしまいました。
牢の中からエレミヤは癒しと回復を預言します。来るべき日に、神さまは真の王を遣わして、全ての民に正義と救いをお与えくださると。その王こそ、私たちの主、イエスさまです。
そのイエスさまは今日、預言をお聞かせくださいました。この預言は同じ章である21章の5節から続く終末の預言です。この終末預言は、エルサレムの滅亡と神殿の崩壊を中心として書かれています。これは、イエスさまより後の時代に起きた、ローマによる神殿の破壊についての預言です。
その部分だけを抜き取って考えますと、なるほど「国の滅亡」という、衝撃的な出来事と「信仰の場の崩壊」という出来事は大きな不安をもって受け取られるべき出来事ではあります。試しに20節から24節を見てみましても、多くの苦しみが待っているということを予感させるような言葉が続いていますが、ここで注目したいのは、これらの苦しみはエルサレムの中に限定されているということです。
エルサレムが陥落する、神殿が崩壊するということは、初代教会を迫害していたユダヤ教徒たちが神の怒りに触れたということの証拠であり、ユダヤ教徒の主張している「正しさ」の否定、つまりキリスト者を迫害する根拠が失われることを意味します。
ルカの描く主イエスの終末預言は、世界の破滅ではなくエルサレムの陥落であり神殿の崩壊です。そこから連続して、自分たちを迫害している者が、つまりユダヤ教の「当時の正統派」が力を失うことを予想したのでしょう。だからこそ、28節ではこれらの出来事の後に待っているのは「あなたがたの解放の時」であるとルカの描く主イエスは述べているのです。
迫害がやみ、キリスト者として平和のうちに生きることが出来る時の到来、それがルカの当時の人々が思い描く終末だったのです。それは待ち遠しい時でした。
その解放の時に先立って、信じがたい出来事が立て続けに起こると主はおっしゃいます。
「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂う。」
天変地異が現れると言うのです。規則正しい運行をするはずの星の動きに異常が現れ、海では波が逆巻き、荒れ狂う。天でも地でも、平穏が失われ激しく動き始めると、当然人々もそれに左右されるでしょう。今まで通りの平穏な生活を送ることが到底できなくなるからです。もちろん社会も大きく混乱することでしょう。不安が社会を覆うでしょう。
聖書の解釈から少し離れた話をさせてください。
「太陽・月・星」、これらを並べて考える時に、私は創世記第1章に記されている創造の御業を思い出します。創世記第1章は、バビロン捕囚の時代に成立した文書です。ここでは太陽も月も星も被造物として神の言葉によって造られています。それには隠された意味があります。「太陽、月、星」を信仰の対象として崇拝していたエジプトやバビロニアといった大国を表しているのですが、これらの天体を被造物として描くことで、「イスラエルは今でこそ捕囚の憂き目にあっているが、我々の神こそまことの神なのだ」と、ここで宣言しているのです。
創世記では大国の象徴として用いられた太陽と月と星、それらが秩序を失うことで人々が混乱に陥いるとイエスさまは言われました。これはまさに今の私たちが置かれている状況なのではないでしょうか。
しかし、これらの出来事に続いて私たちが目にするであろう光景は私たちを安心させます。主が力と栄光を帯びて地上に再び来てくださる様子を私たちは見る事になると聖書は語ります。順序正しく移り行くはずの自然さえ秩序を失い、世の中は混乱するだろう。だが恐れることはない、不安になる必要は無いと主は仰るのです。混乱の後には私が来るのだからと、主は仰るのです。
続けて主は言われます。
「身を起こして頭を上げなさい。」
あなた方は不安に潰されてはならない。むしろこの時にこそ、不安の渦巻くこの時にこそ希望を持って、堂々と生きるべきなのだと言うのです。
主は続けて喩えをお用いになります。いちじくの木に葉が出始めると、夏が近づいていることが分かる。それと同じように、この世の混乱を通して神の国が近付いていることを知ることができる。
ここで鍵になるのは、23節であろうと思います。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
これこそ、どのような時にあっても私たちには確固たる拠り所があるということを力強く示している言葉だからです。そして、この言葉こそ、混乱する社会の中にあってどのように生きることが私たちにふさわしいのか、望まれているのかを知る手掛かりなのです。この言葉に続いて34節が来る。どのような混乱の中にあろうとも、私たちは神様に顔向け出来なくなるような生活をしてはならないと説かれるのです。いつ主イエスの御前に立つことになったとしても、恥じる必要の無いような生活を心掛けよとおっしゃるのです。そして36節では、その生活の中心こそ祈りであると説かれるのです。
2022年はまだあと1ヶ月残っていますが、11月までにもたくさんの事が起きました。中でも、ロシアによるウクライナへの侵略、安倍晋三元首相の暗殺など、世界の歴史にも日本の歴史にも記録しないわけにはいかないほど大きな事件が起きました。
こういう出来事が起こるたびに、様々な人が好き勝手なことを言い始めます。それらの中には的外れなことも多くあるのですが、その的外れな言葉も知らず知らずのうちに私たちに影響を与え、間に受けてしまいやすい私たちは右往左往してしまいます。どの言葉を信じて良いのか、誰を信じて良いのか分からなくなって戸惑ってしまうのです。
混乱する世の中で、私たちが自分たちの歩むべき道を見失うことなく生きるということは、簡単なことではないでしょう。しかし今日、主は揺ぎ無い御言葉を与えてくださいました。天の徴、地の徴は混乱の徴でした。でも「世が乱れた時、その混乱の中に私は姿を現す。」主はそう約束してくださいました。それこそが、私たちに与えられる最も力強い徴なのです。
天に徴が現れる時、地に徴が現れる時、人々は戸惑い、恐れるでしょう。しかし、私たちに与えられている徴は、御子という徴は、それらの徴とは違って私たちを安心させます。平安を与えてくださいます。この徴がいま私たちに与えられようとしています。この時を私たちは祈って待つのです。なぜならば、祈りこそが、主との対話こそが主が私たちと共におられることを確認させ、不安の中に希望を見出させ、私たちを混乱から解放するのですから。
「万軍の主はこう言われる。人も住まず、獣もいない荒れ果てたこの場所で、またすべての町々で、再び羊飼いが牧場を持ち、羊の群れを憩わせるようになる。」
混乱からの解放、苦しみからの解放を神さまは約束してくださいました。その恵みの日は必ず来ます。心が乱される時だからこそ、わたしたちはひたすらに祈って待つのです。
間も無く私たちは御子の降誕を迎えます。喜びを持って、静かな祈りの内に主イエスをお迎えしましょう。