降誕前第7主日礼拝説教

2022年11月6日

創世記 18:1-15

「神の民の選び」

今日はアブラハムの物語です。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの宗教は「アブラハムの宗教」と呼ばれています。その理由は、それぞれの正典に私たちが旧約聖書と呼ぶ書物が含まれており、そこに記されている神の民の歩みはアブラハムから始まっていることによります。

アブラハムは元々アブラムという名前でした。カルデアのウルという大きな町に住んでいました。ウルは現在のイラク南方にあった都市国家で、紀元前三千年前後にはウル第1王朝が成立するなど、シュメールの重要な都市国家でした。

しかし、紀元前2200年から紀元前1900年ごろにかけて、地球規模の寒冷化が発生します。これにより北方に住んでいたアーリア人が暖かい土地を求めて南下を開始します。するとアーリア人が侵入したメソポタミアでは民族の玉突き現象が起こりました。アーリア人が侵入したことによってアモリ人が押し出されてメソポタミアに侵入し、シューメールを滅ぼしてしまいました。

アブラムと父テラがウルを出発した時期と、ちょうど重なります。おそらくアブラムの父テラは戦乱を避けてカナンの地に移住しようとしたのでしょう。

旅の途中、テラはカナンの手前にあるハランで亡くなります。跡を継いだアブラムに神さまは姿を現され、「わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とする。」と述べて繁栄を、また「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。」と、守ってくださることを約束されました。カナンに移住します。ところがアブラムがカナンに着いた当時、カナン一帯は飢饉のために定住には適していませんでした。そこでアブラムは一旦エジプトに避難しようとします。

エジプトに入る前、アブラムは妻のサライに「もし誰かにわたしとの関係をたずねられたら、妹だと答えなさい。美しいあなたがわたしの妻であると知れたら、わたしを殺して奪ってしまうに違いないから。」と言い含めます。

果たしてファラオはサライに目を付け、宮廷に召し入れました。神さまはこれをご覧になるとファラオとその宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせたので、事情に気付いたファラオはサライをアブラムに返し、アブラムの一族をエジプトから追放してしまいました。

そこでアブラムはカナンの南にあるネゲブ地方に行き、アモリ人マムレが持っている樫の木のあたりに天幕を張り、そこに住みました。マムレの樫の木の所に住んでいる間にも神さまはアブラムに姿を現され、名をアブラハムと変えさせました。そして、子を授けると約束し、次いでその子によって諸国民の父と呼ばれるようになる、あなたとの間に、またあなたの子孫との間に契約を立て、カナンの全ての土地をあなたと子孫に永久の所有地として与えると宣言なさいます。

ここまでハッキリと神さまが約束してくださったのにアブラハムはいつまでもマムレの樫の木のところで足踏みをしていたのです。

アブラハムは神様を信じていましたが、現実の生活の中では時折、その信仰と矛盾するようなこともしていました。また、神さまを信じていながらも人間的な不信や疑い深さを露わにすることもあります。神さまが守ってくださると約束してくださったのに、策を巡らして妻を妹と偽ったようにです。

アブラハムは信仰の父と呼ばれていますが、創世記は必ずしもアブラハムを完全な人として理想化してはいません。では、今日の箇所はアブラムの不完全な信仰を非難しているのでしょうか。ある意味ではそうかもしれません。しかし、今日の箇所からは信じ切れない人に対する神さまの寛大さを読み取れるはずです。

子を与えるとの約束を聞いたサラは「この年寄りの自分が子を宿すなど、あり得ないことだ」と、ひそかに笑いました。信じられなかったのです。しかし、神さまはこの不信仰の笑いに気付き、鋭く指摘しながらも、サラを罰したり、約束を反故にしたりはなさいませんでした。後に子を生んだサラは自分が笑ったことを思い出して「笑い」を意味する「イサク」という名を我が子に付けています。この名には、かつて自分が笑ったことと、今喜びで笑っていることの両方の意味が込められているのです。

神さまは信じない者の心をも受け止めてくださるのです。

今日は永眠者記念礼拝です。特に私たちの教会で共に信仰生活を送った55人の友を覚える日です。これらの姉妹たち兄弟たちもまた、時に戸惑いつつも信仰者として人生を歩み通し、天に召されました。

また、わたしたちの家族の中には信仰者の道に足を踏み入れることなく、人生を終えた方も居られます。

神さまは全ての人の生涯を、信仰者であろうとなかろうと、全ての歩みを祝福され、守られ、歩みを終えた時には良く頑張ったと労り、迎え入れてくださいます。

今日の箇所における最大の関心事は、信仰の有無や信仰の強さではありません。アブラムの歩みの第一歩は、神さまとまだ出会っていなかった父、テラによって始められました。神さまの御計画、救いをもたらす神さまの導きは、人間の信仰を遥かに超えて力強いのだと言いたいのです。

神さまは時に信仰を持つ人でさえも信じられないような不可能事を実現なさる方なのです。そして、信じる心の薄いわたしたちは、わたしたちの身の上に起きる不思議の数々を見て、ゆっくりではありますが一歩、また一歩と人生の歩みを深めていくのです。

非の打ち所のない完全な信仰などあり得ません。人間の信仰は苦しみにあって挫折してしまうこともあります。でも、そんな限界のある信仰を神さまは軽んぜず、わたしたちが挫折する度に引き起こし、支え、導いてくださるのです。

神さまはわたしたちの歩みの末に明るい将来を約束してくださいました。アブラハムの生涯を振り返りながら、この常に約束を確かなものと信じて歩みたいと願います。

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