待降節第3主日礼拝説教

2022年12月11日

ゼファニア書 3:14-18

「喜びの先駆け」

2017年、全国の神学生たちは驚愕しました。この年の秋に実施された正教師試験、つまり牧師になるための試験の問題の内、旧約聖書神学の問いがあまりに難しい内容だったからです。「旧約聖書における石の柱とその役割について、具体的に複数の聖書箇所を挙げながら述べてください。」という内容でしたが、多くの受験者が「石の柱」という言葉に戸惑ったのです。

私たちは、この試験の直前に教師検定委員が交代したらしいという情報を耳にしていたので、「教団は教師検定試験を『落とすための試験』にしたらしい」と考え、震え上がりました。実際、この時から教師検定試験は難易度が各段に上がり、ストレートに合格する受験者は少なくなりました。私もだいぶ苦労させられました。

では、問題に出て来た石の柱とは何だったのかと言いますと、元はヤコブが神さまと語り合った場所に記念として建てた石碑を指す言葉でした。兄エサウが長男として受けるべきであった祝福をヤコブが騙し取ってしまったために、ヤコブは兄から命を狙われるようになりましたが、後に再会して和解をしました。エサウとの再会の後に神さまはヤコブに語り掛け、住まうべき土地を指し示されます。

この時ヤコブは神さまと語り合った場所に石の柱を立て、その土地を「ベテル」名付けました。ベテルとは「ベート・エル」という言葉がつまった名前ですが、ベートは家、エルは神という意味ですので、「神の家」という名前を付けたわけです。このベテルが最初の聖所となりました。

しかし、時代が下るとこのベテルには異教の神々を祭る象徴的な物が集められるようになりました。例えば異教の神の像や祭りに使う道具の類などです。最も強烈な出来事としては、ヤロブアムという王が金の子牛を二つ造り、そのうちの一つをベテルに安置した事件でしょう。この時代、人々は神さまから離れ、異教の神を拝むという罪に陥ってしまいました。これら異教の神々とその像は富を与える神として拝まれていましたが、多くの預言者がこれを批判し、偶像礼拝の中心地となってしまったベテルを攻撃しました。

本来、神さまとの交流を永く覚えておくために石の柱が立てられたはずのベテルが、神さまへの背きを象徴する町になってしまいました。神の民は堕落してしまいました。紀元前8世紀の終わりにイザヤ、ミカ、アモスなどの預言者たちが声を揃えて神の怒りと立ち返りを訴えましたが、民は聴く耳を持ちませんでした。神さまを信じる人々にとっては、恐れと不安に苦しめられる時代が続きました。

さらにしばらくすると、ゼファニアを皮切りに、エレミヤ、オバデヤ、ナホムなどが再び活発に預言し始めます。そんな時代にヨシヤという王が即位します。ヨシヤはエルサレム神殿を改修するよう命令しましたが、この工事の最中に巻物を発見します。この巻物を開いて読んでみますと、神さまとの契約や守るべき祭りなどが記されている律法の書でした。

ヨシヤはこの巻物に従って、かつて結ばれた神さまとの契約を民に告げ知らせ、廃れていた祭儀を復活させ、異教的な伝統を排除すると同時に、石の柱を砕きました。守るべき信仰が再び明らかにし、捨て去るべき悪い習慣を捨て、民を本来歩むべき道へと引き戻したのです。

立ち帰った民の受ける喜びをゼファニアは歌っています。14節から20節はエルサレムの恵みが回復され、散らされていた者たちの帰還を喜ぶ歌です。

「娘シオンよ」と歌われていますが、この箇所を読みますと私は古い賛美歌の130番「よろこべや、たたえよや」を思い出します。この賛美歌でも「シオンの娘」という言葉がありますが、この言葉は親しさや愛らしさという思いを込めてエルサレムに呼び掛ける言葉です。神さまは御自身を慕って集まる人々に対して、愛情をこめて「娘よ」と呼び掛け、「喜びなさい」と言われるのです。何を喜ぶのでしょうか。

先日、園児の一人が私に質問をしました。「なぜ神さまは居るの?」実に根源的な問いですが、これは「なぜ神さまは人を創られたのか」という問いと対にして答えられるべき問いです。

創造の御業の前に神さまは存在しておられました。創世記には混沌とした深淵の面を神さまの霊が動いていたとあります。言い換えるならば、神さまはただお一人で闇の中に居られたのです。神さまは愛する対象を望み、また御自身を愛する者を欲して人を創られたのではないかと私は考えています。

しかし神さまはペットが欲しかったわけではありません。人間が自由意志によって神さまを愛し、神さまからの愛を受け容れることを望まれました。また神さまは人間同士が互いに愛し愛されて生きるようにも望まれたので、人は一人ではなく、アダムとエバが、共に生きる者たちとして創られたのです。

最初のころ、アダムとエバは神さまの愛を無条件に信じていました。しかし少しずつ人間は神さまから離れ、ついにはなかなか愛を受け容れられず、また信じられなくなり、神さまから距離を置くようになってしまいました。これは、ある意味で仕方が無いことだと思います。知恵を身に付けた者ならば「無条件にあなたを愛する」と言われても、「なんか裏があるんじゃないの?」と疑いたくなりますよね。それに、自由意志があるということは、愛を拒否出来るという意味でもあります。他の何かに愛以上の価値を見出す可能性だってあります。それが楽園追放の物語です。

しかし、愛し愛される関係は神さまの願いであり、人間にとっても好ましいので、人間が元のとおり神さまからの愛を受け容れ、神さまを愛するように、また人間同士が無条件で愛し合えるように繰り返し呼び掛けをなさいました。その最大の呼び掛けが、独り子のお生まれと十字架の上での死でした。

というわけで、「神さまは愛するために居られる」というのが、この園児への私の答えでしたが、同時にこの答えから展開して「なぜ神さまは人を創られたの?」という問いへの答えは「人は愛されるために、そして愛するために創られた」となります。

神さまは私たちを愛したいと願い、事実愛され、また私たちが神さまを愛し、互いに愛し合うことを望まれました。だから、神さまは闇の中に光を灯し、世界を、人を創られたのです。神さまは愛し愛される日を望み、今もそれが実現する日の来ることを待ち望んでおられるのです。

それはあたかも、子が与えられる日を待ちわびる夫婦のような気持ちなのではないでしょうか。

今日はザカリアへの知らせが読まれました。天使が喜びの知らせを持って来たのです。年老いた祭司、ザカリアには子がありませんでした。彼も妻エリサベトも、もはや諦めていたでしょう。しかし天使はザカリアとエリサベトに子が与えられると告げます。

不妊のモチーフは神さまの創造的な導きを表すものとして聖書で幾たびか用いられています。アブラハムの妻サラも、イサクの妻リベカやヤコブの妻ラケル、サムソンの母、サムエルの母ハンナも長く子を授かりませんでしたが、神さまの御業によって子を産みました。幸せを望みながらも叶えられず、失望し、絶望し、苦しみつつ歩んでいる者たちに希望を与えられる。闇が光に変えられる瞬間が今日語られたのです。

私たちは長く苦しんでいます。それはここ数年だけの話ではありません。長く長く、将来への希望を持ちづらい社会を生きています。でも、私たちの希望はどこにあるのでしょうか。私たちの希望は富を得ることによって叶えられるでしょうか。もっと暖かい何かを私たちは望んでいるはずです。今のような状況だからこそ、それが良く分かります。

愛されること、愛すること、優しくされること、優しくすること。それこそが私たちの喜びです。

クリスマスは、誰もが優しくなれる日です。その先駆けの日々である今こそ、優しさを育てましょう。

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