待降節第4主日礼拝説教

2022年12月18日

イザヤ書 11:1-10

「救いの知らせ」

いよいよ待降節の最後の主日となりました。来週には私たちはイエスさまをお迎えしています。

イエスさまがどのようなお方であるかを言い表す言葉はいくつもありますが、その中でも身近に感じられる言葉は「王」という表現でしょう。子どもたちの演じるページェントでも「王さま」と呼んでいます。

マタイとルカはイエスさまの系図を記していますが、イエスさまの祖先にはダビデとその父エッサイの名が記されています。このことからイエスさまは血統的に王の血筋であることが分かりますが、イエスさまが王である所以は血の繋がりによってではありません。

神さまと人との関わりの中の、特に救いに関する重要な場面において不妊の女性が登場します。例えば族長時代にはアブラハムの妻サラやイサクの妻リベカ、ヤコブの妻ラケルらは不妊でしたが、神さまが介入され、子を授かっています。士師の時代にはサムソンの母やサムエルの母ハンナに子が与えられ、民を導く者としての力を授けられました。イエスさまがお生まれになる直前には洗礼者ヨハネの母エリサベトに天使が現れ、子を授かると告げました。

これらの出来事を通して私たちは神の民の存続や救いの成就は、神さまの働き無しには成り立たないということを知ります。そして、これらの救いの御業の頂点に御子イエスさまの誕生があります。

しかし、イエスさまの誕生は先に挙げた例のどれとも一致しない決定的な違いがあります。それは、マリアが乙女であったという点です。イエスさまの誕生には人間が全く介在しておらず、一重に聖霊の力によるのだということが、イエスさまの御降誕が神さまの全面的で決定的な救いの御業であると教えるのです。

ユダヤの人々は救い主を待ち望んでいました。ユダヤが独立した王国であった時代から既に真の王の到来を願っていたことを、今日の聖書箇所であるイザヤ書は伝えています。この時代、国の中では政治が崩壊し、国の外に目をやると外敵の脅威にさらされていたことから王への不信感が募っていました。そんな時代に、イザヤを通して神さまは真の王がお生まれになると預言されました。

その王の上には神さまの霊がとどまり、王として持つべき特質を彼に与えます。その中でも主を畏れ敬う霊が彼を満たします。

新共同訳では「満たす」と訳されていますが、この言葉を直訳すると、「匂い」ですとか「香ばしいかおり」となります。理想の王は神さまへの畏れを心地よい香りとして放つのです。

如何なる理想であっても、それは押し付けられるべきものではありません。また、リーダーシップをとるべき立場に置かれた人は理想や正義を行おうと努力します。しかし、それらの理想や正義は迫られて行うべきではありません。押し付けをした時点で既に理想は理想ではなく、正義は正義でなくなってしまっています。

そもそも、人の目に見えるものは断片でしかありません。その断片を頼りに、どこまで理想を追い求められるでしょうか。完全な知識を持たない人間が追求できる理想などたかが知れています。それはもはや理想ではなく、独り善がりです。独り善がりは人を傷付けます。

真の王は、神さまの霊の導きによって人間の肉の思いや願いを超えて神さまの御心によって国を統治します。だからこそ、抑圧され、貧しい状態にありながらもそれに抗議の声を上げられない人々のための正しい裁きを行えるのです。

真の王は、正義を剣として他者を切り伏せるのではなく、自分の導きとして腰に巻くのです。真の王からは神さまへの畏れが心地よい香りとして放たれています。

そんな彼が統治する世界では、人の心にある角や棘、毒気が抜かれてしまいます。野獣でさえ幼児の友となり、あらゆる暴虐・暴力は静まり、全世界が主を知る知識に満たされます。その王が治める国では私たちも自ずと神さまの御心を知り、行えるのです。意識せずとも、誰に対しても自然と優しくなれるのです。

誰かが誰かを餌食にすることがなくなり、過去の諍いも和解へと導かれます。蛇やマムシの穴に子どもたちが手を突っ込んでいますが、これらの蛇は子どもたちを噛みません。人が罪に堕ちエデンを追放された時、人と蛇の間には互いに対する呪いが生まれてしまいましたが、真の王による支配の下では全てが清算され、関係が回復されるのです。

現実にそのような関係を実現できるでしょうか。人間の力、人間の王では不可能だと思います。私自身、これまでの人生の中で、無理に近付くべきではない人々と出会ってきました。これらの人々は他者を滅多やたらと傷付けて生きています。そうせずには居られないのです。誰かを攻撃することでしか自分を保てない人たちが現実に居るのです。

その人の心には棘が刺さっていて、この棘が抜けさえすればきっとこの人も優しくなれるだろうとは思うのですが、その棘に手を届かせるよりも前に私たち自身が傷だらけになってしまうのです。当然なのです。その棘に触れられるとその人自身が痛いのですから。

そんな時には、無理に手を伸ばそうとしなくても良いと思います。まずあなた自身が自分を守らなければならないから。距離を置いた方が良い人も居ます。でも、そこでその人をあなたの心から外に捨てないでください。あなたがその人を覚え、祈るならば、その祈りを神さまは聴いてくださいます。そして来るべき日に、何のわだかまりも無く、恨みも無く、その人とも平和に過ごせる国へと私たちを導き入れて下さいます。

天使ガブリエルが告げたイエスさまの御支配は、私たちが望む理想の国の姿です。人と人との理想の関係です。そこでは誰もが互いを慮りつつ、優しくなれる、そんな関係を私たちは望むのです。その国は夢物語の中に存在するのではなく、いつか必ず訪れるのです。

私たちは神の御子が旗印とされているその国を目指して歩むのです。

説教目次へ