2022年12月24日
ヨハネによる福音書 1:1-14
「闇に打ち勝つ光」
「初めに」という言葉を聞くと、多くの皆さんが創世記の書き出しを連想なさるのではないでしょうか。私たちがこの世で目にし、手に触れる何ものよりも前に、神さまによる創造の御業があった。これは論理的に考えて当然のことと思います。神さまが創造なさるよりも前には、ただ混沌と、その上にたゆたう神さまの霊だけが存在していたわけですから。神さまはこの世を御言葉によって創造なさいました。神さまが「光あれ」とお命じになれば光はありましたし、水に「天の水と地の水に分かれよ」と仰せになれば水と水の間に空間が、大空が現れました。大空に太陽と月、星を配置なさった時には、これらに対し「規則正しく巡って季節や日や年のしるしとなれ」と命令されました。
神さまは御言葉によってこの世を作ると同時にこの世に存在するあらゆるものに法則性を、ありようを定められたのです。言わば神さまの御言葉は私たちの住む世界の、そして私たち自身の本質そのものなのです。
福音書記者ヨハネは、イエスさまの福音を書き記すにあたり冒頭を、子なる神であるイエスさまについての証言に当てています。
マタイやマルコ、ルカの三人はイエスさまの行いや語られた言葉によってイエスさまの御姿を私たちに示していますが、ヨハネは彼の心に映ったイエスさまの印象、彼自身のイエス理解を言葉に直して私たちに伝えようとしています。これはヨハネなりの挑戦であったのでしょうが、心に浮かぶイメージを誰にでも分かるように伝えられるような手段を人間は持っていません。
例えば、チョコレートを食べた経験の無い人にチョコレートの味を伝えようとしても、実際に食べてもらう以上に優れた伝達方法はありません。食べた経験がある人同士の間でもイメージのズレは生じ得ます。あなたがイメージするチョコレートはミルクチョコレートなのに、私が思い描くチョコレートはカカオ88パーセントの苦いチョコレートかもしれないのです。
にもかかわらず、ヨハネはたくさんの言葉を連ねてイエスさまを私たちに伝えようとしています。彼が生きた時代にあっては、例えばギリシャ哲学やゾロアスターの持つ二元論的な世界観が広く受け入れられていたために、彼はそれらの持つ論理や用語を用いて、イエスさまの御姿を伝えようとしています。
例えば「言(ロゴス)」という言葉も哲学の世界で広く用いられる言葉です。ヨハネの語る福音は、今の私たちにとっては理解の難しい論法なのですが、ヨハネにとっては考えられる最良の手段だったのかもしれません。もしかすると、こういう形でしか残せなかったのかもしれません。
確かにヨハネの言葉は難しくて理解しにくいと思います。それでも、彼の言葉は私たちを無理解から解き放とうと働きかけます。何とかして伝えようという思いが、私たちの心をホンの少しずつかもしれませんが理解へと導きます。今日用いられた「言葉」や「光」、「命」という用語は、それが意味するところを知れば、私たちの理解を大きく助けます。
ここで言われる「言」とは、先ほど申し上げたように、第一に神さまの創造の御業です。そして、次に「命」です。
神さまが土をこねて人を創られた時に、人の鼻に息吹を吹き込まれた時、神さまは私たちの内に息吹を吹き込まれました。この息吹は神さまの霊、つまり神さまの本質です。私たちはこの息吹をアダムの時から、ずっと受け継いでいます。この霊が私たちに働きかけて、私たちに神さまの御心を行わせます。私たちはもちろん神さまではありませんが、神さまの持っておられる特質を、それぞれ部分的には分け与えられているのです。その特質とは、愛への欲求です。
その特質を用いて神さまは私たちを救いの御業に参与させよう、愛を求めさせ愛を行わせようとなさっているのですが、どうしても私たち自身が介在してしまうために、神さまから人への直接的な働きかけが持つほどの強く激しい働きは出来ません。例えば洗礼者ヨハネもまた御心を伝える者として神さまに召し出されましたが、彼自身は救いの御業を完成させる者ではありませんでした。
もちろんヨハネは、少なくとも私たちよりは神さまを深く理解していたと思います。だからこそ、彼の生きた姿、神さまを愛し、敬い、神さまに仕えたいと強く、深く願って生きた姿、何よりも「この方の上に神さまの霊が鳩のように下って止まった。この方こそ神さまに遣わされた方である」との証言は当時多くの人々をイエスさまに引き合わせたのです。
イエスさまと出会った全ての人が神さまの御救いの内に入れたわけではありませんでした。最初の内こそイエスさまの御言葉に喜んで耳を傾けていた人々も、イエスさまが御救いの核心へと、完成へと歩みを進められるに従って、そのほとんどがイエスさまを拒絶してしまいました。
当時の人々は言ったでしょう。「あれは普通ではない、あれについて歩いている連中も普通ではないではないか」。その通りだと思います。イエスさまを最初に受け容れ、最後まで付き従った人々は、世の中から見ると普通ではありませんでした。隔離されるべき病人や厭われるべき罪人こそがイエスさまに従い続けました。
なにより、世の中が力による解決を求めていた時代にあって、力ほど無力な物は無い、私たちが頼るべきはそれではないとの訴えは普通ではありませんでした。しかも、イエスさまは人々に神さまの本質は愛である、神さまの御力の本質は愛であると示すため、進んで御自身の命を差し出されたのです。普通ではありません。
その「普通じゃないイエスさま」との出会いが私たちにとっては救いなのです。この出会いが私たちの内に光を灯しました。
主の御言葉は光です。イエスさまとの出会いによって私たちは光を分け与えられていることに気付かされました。この光は私たちが、世の中が闇に迷い込んだ時にこそ力を発揮します。闇は光を理解しないかもしれませんが、闇は光には勝てません。闇は光を捕らえられません。光は闇に打ち勝ち、私たちを闇の縄目から自由にします。私たちを闇から引き出すのです。
「普通」が通用しなくなった混沌、秩序の失われた世界こそ闇です。どうすれば良いのか皆目見当がつかないような時。世の言う「普通」も、私たち個々の考える「普通」も役に立たなくなった混沌に世が、私たちが陥ってしまった時にこそ、私たちは光に気付きます。理解してもらいたいのに理解してもらえず、ヤケクソになるしかないと思ってしまうような時にこそ私たちの内に点る光、私たちに託された光が力を発揮し、命を主張するのです。だから私たちは、この光をいつも大切に守り続けなければならないのです。