2022年12月4日
イザヤ書 55:1-11
「神の言葉の実現」
12月に入りました。師走という呼ばれ方をするこの月は、誰にとっても大変忙しい時期です。今でこそ私は呑気にこの時期を過ごすようになりましたが、神学生時代は大きなお店でアルバイトをしていたので、この時期の忙しさを思い出すと、もう同じことは出来ないと思わされます。忙しさが生活に活気を与えたり、楽しめたりする程度であれば良いのですが、心から優しさや余裕を奪うほどになってしまうのは困りものです。今日はイザヤの預言が読まれました。イザヤ書は先週読まれましたエレミヤ書やエゼキエル書と並んで三大預言書と呼ばれています、預言者イザヤを通して語られた神さまの御言葉です。
イザヤは紀元前8世紀に南ユダヤ王国の首都エルサレムで活動した宮廷預言者であると考えられています。宮廷預言者とは何でしょうか。先週お話をしましたエレミヤが南ユダヤ王国の王族に遠ざけられた人物であったのと対照的に、イザヤは王族の側に仕えて神さまの御言葉を語る者でした。王のお気に入りと言っても良いかもしれません。
ただし、イザヤ書の全てが一人の人物によって預言された言葉であるとは考えられていません。イザヤ書は66章まであるのですが、近現代の研究者の多くが前半の39章までをイザヤ自身による記述、後半40章から66章までをイザヤの弟子集団による記述と考えています。また、場合によっては弟子集団による記述を更に40章から55章までを第2イザヤ、56章から66章までを第3イザヤに区分けする考え方もありますが、研究者によって意見が異なっています。
紀元前587年、バビロニア王国の王ネブカドネツァルによってユダヤ王国の首都エルサレムは陥落し、ユダヤ王国は滅亡しました。ユダヤ王国の最後の王であるゼデキヤを始め、エルサレムの主立った人々はバビロンに移送されました。これがバビロン捕囚と呼ばれる出来事です。
しかし、この25年後、つまり紀元前562年にネブカドネツァルが崩御するとバビロニアは急速に衰え始めます。そして、バビロニアの衰亡と対照的に力を付け始めたペルシャ王国の王キュロス二世がバビロニアを攻撃し始めると、これを防ぎきれず、紀元前539年にはついに首都バビロンは無血開城してしまいます。
新たな征服者キュロス二世は宗教的には寛容な人物でした。バビロニア王国は征服した諸国から、それぞれの民族が信仰している神々の像を奪ってバビロンに集めていましたが、キュロス二世はこれらの像を元あった町々に返還しています。これと同時に捕囚の民であったユダヤ人にも帰還を許可しています。
故国への帰還を許されたユダヤ人でしたが、全てのユダヤ人がユダヤへの帰還に賛成したわけではありませんでした。バビロンからユダヤに行くには荒れ野を渡る必要がありました。
また、帰り着いたところで、そこは既に廃墟となったエルサレムです。帰ってからも町を立て直すという困難な事業が待っています。ユダヤ人は50年から長い人で60年もの年月を捕囚の民としてバビロンに居ました。この間に世代は交代しています。解放された時期に生きていたユダヤ人の多くは、バビロンで生まれた人々であり、彼らにとって故郷とはバビロンでした。バビロンでの生活以外に生きる術を知らないのです。
イザヤは帰国を渋る人々に民族のアイデンティティ、つまり守り続けるべき最も大切なものが何かを訴え、説得します。ユダヤの民にとってアイデンティティの中核をなすものこそ信仰、つまり神さまとの繋がりでした。
捕囚の生活の中でユダヤの民は神さまの御姿を見失っていました。祭司や預言者たちは人々が自分のルーツを忘れてしまわないよう、懸命に信仰を立て直そうと努め、訴えます。2節では魂という言葉が使われていますが、これは霊魂だけではなく肉体とそれを生かす生命、ひいては人間存在の全体を表す言葉です。「バビロンでの生活は肉体的な満足を与えこそすれ、霊的な命を保たせるようなものではない。主をたずね求めよ、神を呼び求めよ。私たちの心はエルサレムに帰ってこそ保ちうるのだ」と訴えました。
今や苦しむべき時は過ぎ去り、解放の道を歩み出す時が来たのです。
以前、私はアトピー持ちであるとお話をしました。そして、アレルゲンが取り除かれたともお話をしました。そのアレルゲンこそ、私の父だったのです。
父は、いわゆる「困った人」でした。いつ感情を爆発させるか分からない。何が原因で感情を爆発させるか分からない。怒り始めたら何時間でも怒鳴り続け、家族は嵐が過ぎ去るまでジッと耐え続けなければならないという生活を強いられました。今にして思えば父の心には何らかの障害があり、父自身も苦しんでいたのだろうと思いますが、当時はそのような知識は一般的ではありませんでしたし、仮にそのような知識があったところで私たち家族にはなす術がありませんでした。できることと言えば、逃げることだけでした。
一人、また一人と家を出ていきます。最後に残ったのが私でした。年齢などの理由から残らざるを得なかったのです。父と二人で暮らす日々は苦痛でした。しかし、中学卒業を期に、ついに家を出ました。先に一人暮らしをしていた姉と合流したのです。
大人になった今ならば、高々二十歳の女の子と十五歳の男の子が二人で生活をするなど無茶だと思いますが、当時はそれでも毎日を楽しく過ごしていました。確かにアルバイトをしながら高校に通うのは楽ではありませんでしたが、それでも不安や恐怖から無縁で居られるという安心は何物にも代えられない喜びでした。
人間にとって最も大切なもの、それこそ「心の自由」「心が生きていること」なのです。心が生きていなければ、心が自由でなければ、人間は生きられないのです。
こんなことは、本当は誰でも知っているのです。誰もが理解しているのですが、困難の中に放り込まれ、苦しみが当たり前の状態になってしまうと、人はそれがどれほど大切であるかを見失ってしまうのです。目の前の課題や困難を乗り越えることが一番になってしまって、心や、時には命すら犠牲にしてそれを乗り越えようと頑張ってしまうのです。
でも、一番大切なのは、あなたの命でありあなたの心なのです。
どのような課題や問題も、あなたの命と比べるほどの重さなど持っては居ないのです。あなたが生きてさえいれば、あなたの心が生きてさえいれば、他のことなどどうでも良いのです。それを決して忘れないで欲しいのです。このことを覚えていて欲しいのです。
「命が大事」と言う時、命とは肉体的な生命と心が生きていることの二つを指しているのです。
あなたの心は、あなたの命は、何よりも大事なのです。
「ブラック企業」などという言葉が広く用いられるようになりましたが、過酷な労働は人の心を殺してしまいます。労働だけではなく、人間関係において何かを一方的に搾取するような、特に心を搾り取るような関係は人の肉体や精神、人間関係、人生設計、人命に至るまで、あらゆるものを破壊してしまいます。そのような状況に居るべきではありません。
何が一番大事なのかを思い出してください。例えば安心できていた時にはどんなだったか、また幼かったころ遠く未来に望んでいた光景を思い出してください。私にとっては、母と暮らしていたのんびりした生活や、そのころ見ていた将来への夢がそれでした。正しく目指すべき道を見出せたならば、神さまの約束、あなたを幸せにするという神さまの約束はきっと実現します。
もし、一人でそれを見出せないなら、イエスさまの御名を求めて下さい。主はあなたと一緒に歩み、あなたを導かれます。
イエスさまと歩む時、イエスさまの御声を聴く時、「あなたに喜びを与える」という神さまの約束は実現するのです。
イエスさまと共に歩む道は命の道なのです。