降誕節第8主日礼拝説教

2022年2月13日

マルコによる福音書 4:1-9

「御言葉の種」

イエスさまはガリラヤ地方で伝道を始められると、時にはガリラヤ湖のほとりで、時には大都市であるカファルナウムの会堂で、また人里離れた場所にもおいでになり、様々な所で御言葉を語られました。そして今また主はガリラヤ湖のほとりに来られました。マルコは今日の箇所では「再び」と書いておりますが、実際にはガリラヤ湖における四回目の伝道です。

たくさんの人々が御言葉を求めてイエスさまを取り囲んでいます。

皆さんは多くの人に囲まれた状態で話をしたことがあるでしょうか。私は一度だけあります。ある修養会の早天礼拝で説教をした時のことです。その時には場を特に設けておりませんでしたので、会衆が私の周りを取り囲む形になっていました。

私は、ひとつの方向にだけ向いてお話をするのは申し訳ないと思い、少しずつ体の向きを変えながらお話をしました。つまり、ゆっくりと回りながらお話をしたわけですが、後に「あれは話を聞きづらかった」というご意見を頂きました。話しながら回ったのは私なりの配慮であったわけですが、どうせならば会衆のみなさんには私の前に集まっていただいて、仮にでも場を設定してお話をした方が良かったと反省したものです。

イエスさまは私がしたような失敗はなさいませんでした。集まった人々が話を聞きやすいように、一艘の小舟を説教壇に見立てて座り、岸に集まっている人々に語り掛けられたのです。

主は多くの事を教えられました。先週も申し上げました通り、イエスさまは御心を聞く者が理解しやすいように、噛み砕いてお話をなさいました。この時話された中で、特に皆の記憶に残ったのは、御言葉を聞くそれぞれの人の心の状態と、その心の中で御言葉が姿を変えていく様子を種蒔きになぞらえた喩え話でした。この喩えの説明は15節以降に記されている通りです。

道端に落ちた種は、誘惑に弱い人の心に蒔かれた御言葉です。そこでは御言葉が芽を出すよりも前に誘惑に負けてしまい、罪に落ちてしまうので御言葉が実を結ぶことはありません。

石だらけのところに落ちた種は、上辺でしか迎え入れられないので根を張ることが出来ず、困難に遭うとすぐに枯れてしまいます。

いばらの中に蒔かれた種は、この世の思い煩いや欲が心を塞いでしまうために、成長することが出来ません。

これらの土地に対して、良い土地は蒔かれた御言葉の種が実を結ぶまで、それを守ることが出来ると主は言われます。

すると、良い土地以外で蒔かれた種は無駄になってしまうのでしょうか。

結局、もともと良い人間でなければ御言葉を迎え入れて育てることが出来ないのでしょうか。心が荒れている人は救われることが無いのでしょうか。

そうではありません。土地は姿を変えます。それと同じように、人の心も変わります。荒れていた土地も、御言葉の種が芽を出すのに相応しい土地となるのです。何か月も、あるいは何年もかけて土地は姿を変えます。もちろん時には、一晩のうちに姿を変えるというような、激しい変化が起こることもあるかもしれませんが、ゆっくりと起こることの方が多いように思います。

皆さんは教会の北側の土地が姿を変えたことにお気付きでしょうか。防災避難所として使われている、あの土地です。

私が赴任してきたばかりの時、あの土地の八百屋さん側は草がぼうぼうに茂っていて、足を踏み入れるのを躊躇うほどでしたが、去年の夏に幼児園の皆で草刈りをしました。草の下に隠れていた石を脇に寄せたり、刈った草を鋤き込んだりしたので、あそこには今、土が出来ています。私には詳しいことは分かりませんが、この春辺りには何かを植えることができるのではないかと思います。

少しずつでも手を入れて時間をかければ、荒れた土地、雑草だらけの土地でも、良い畑に変わるのです。

それに、荒れた土地に蒔かれた種がことごとく死んでしまうかと言うと、決してそうではありません。タウンニュースという神奈川のローカル新聞に興味深い記事がありました。2011年12月の記事です。秦野市横野で住宅を解体したのだそうですが、その跡地でタバコが芽を出し、1メートルほどにまで育ったのだそうです。

解体された家は取り壊しの時から数えて40年以上前に建てられたのだそうです。元々その土地は、家を建てた時から更に10年ほど前までは、この家の持ち主の実家がタバコを栽培していた畑だったのだそうです。つまりこのタバコの種は、50年の間土の中にあったものが、条件が整ってやっと芽を出したというのです。

こういうことは時々ありますよね。有名なところでは、東京大学が千葉県に持っている農場で発掘された古代の蓮が2000年の時を経て目を出したということがありました。種は、蒔かれた時には条件が整っていなくても、そのいくつかは生き残って、条件が満たされると芽を出すのです。

私たちの心に蒔かれた御言葉も、同じように年月を経てから芽を出すと言うことがあります。皆さんの中には覚えがある方も居られるのではないでしょうか。あの時の御言葉はこれを指していたのかと、後々思わせられるような出来事があります。ふとした時に昔聞いた御言葉が蘇って私たちを支えるような出来事があります。

それと同じように、その時には芽を出さなくても、後になってからその人の心で芽を出し、信仰という実を結ぶ種があるのです。

まして、私たちの主、イエスさまは、何度も何度も種を蒔くために私たちの許へ来てくださるのです。ガリラヤ湖に来られたのは今日で四回目です。主はここを訪れる度に、繰り返し繰り返し種を蒔かれます。

私たちの心に蒔かれた種のどれほどが芽を出し、実を結ぶでしょう。全ての種ではありませんよね。それでも、少しずつであっても芽は増えていきますよね。それと同じように、私たちも主のなさりようを真似て、何度でも繰り返し種を蒔くのです。

その時には、土地が荒れていて、種は芽を出せないかもしれません。種の蒔き方を失敗するかもしれません。それならば、少しずつやり方を変えれば良いのです。草を刈ってみたり、石を取り除けてみたり。そうやって土を作るのです。一気に全てを作り変えようとしなくても良いのです。時間をかけて行うことが、かえって近道となるということもあるのです。肝心なことは諦めないことです。

主は「聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃいました。どこまで私たちが主の御言葉を理解できるかは分かりません。自信がありません。でも、間違いなく私たちは主の御言葉を聞きたいと願っています。私たちの心で御言葉が豊かに実を結ぶことを望んでいるからです。そして、この豊かさを分かち合うことを望んでいるからです。

今日は73年前に初めてこの教会で収穫を得られたことを記念する日です。厳密には、その当時はまだ教会とはなっていませんでした。しかし、秦野で御救いが語られるよう願って捧げた祈りが聞き上げられ、成就したことを私たちは覚えて感謝するのです。そして、今私たちが蒔き、これから私たちが蒔く種がいつか芽吹くことを願って祈るのです。

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